文学部生・したろうのなかみ

頭の中だけはここで整理整頓

「日本人」って?

こんちは。

 

テレビで連日、国会が中継されていました。安保法案の採決の動向をカメラがずっと追っていました。

 

そしてついこの前、「強行採決」という形でひとつ収束を迎えました。

 

 

 

 

この法案に関して、反対意見もあれば、当然賛成意見もあります。

 

 

テレビに限定していうならば、反対側の意見を聞く機会が多かったです。

 

 

 

そして、その中で僕がどうしても違和感を抱いた意見があります。

 

 

 

「日本を守れ!『日本人』を守れ!」

 

声高々に国会前で叫ぶ人。それに続きわき上がるシュプレヒコール

 

 

 

僕はこれを聞いたときに、言い知れぬ違和感と嫌悪感に襲われました。

 

 

そしてその後、その原因について考えてみました。

 

 

 

結果、「日本人」という枠組みの捉え方において、賛成側の方々の捉え方と僕のそれとで齟齬が生じているからだ、ということが分かりました。

 

 

 

 

「日本人」

 

 

 

この言葉をどう捉えるか。

 

 

 

どうも賛成側の方々の意見を聞いていると、この「日本人」という言葉に対して、

「日本に住んでいる人」という捉え方をしているような気がしてなりませんでした。

 

 

 

ここに、僕は違和感を覚えたのです。

 

 

 

この捉え方には、国外に在住している日本人への配慮が足りないように思われるのです。

 

 

 

 

思うのですが、「日本人」について考える上で、もはや島国「日本」の枠組み内だけで考えようとすることに、限界がきているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

近年、世界全体のグローバル化が急速に進んでいます。最大の要因はネットワークの発達です。今から10年前の僕らにとって、LINEやFacebookといったSNSで海外の友達に即座に連絡をとれるようなった今なんてにわかには信じ難いでしょう。

 

 

 

そのグローバルの動きは日本も例外ではありません。

 

 

 

グローバリゼーションの波に乗って、日本から離れ、海外に駐在・在住する日本人が増えたのです。

 

これこそ、「日本」という枠組みだけで「日本人」は捉えるべきではないと言った理由です。

 

 

それを超えた、もっと広い枠組みで「日本人」を見ていかないといけない、そういう時代に既に突入していると思います。

 

 

 

そういう視点に立った場合、当然国外の日本人の安全についても考えるのが普通です。

 

 

 

 

 

 

今回採決された安保法案について。

 

 

(「戦争法案」とテレビでよく報道されていますが、「イスラム国」同様、これは注意すべき表現だと思います。「その法案が通れば、戦争が行われてしまう」、そうしたレッテルを国民が貼る可能性を増幅させかねないものです。)

 

 

何故、阿倍政権はこの法案を通したかったのか。

 

 

 

理由の1つに「国外の日本人救出」があります。

 

 

 

つまり、今まで憲法の解釈では不可能だった「後方支援」(「これが軍事行為か否か」という論点についてはここでは触れないでおきます)を可能にすることで、自衛隊が国外の日本人の救助活動を、よりとれるようになるのです。

 

 

他にも理由は様々あり、それに対する賛成・反対意見も多様です。

 

そして少なくともこの理由に関しては、僕は「日本人」を世界の枠組みで捉えている点で、妥当だと思います。

 

 

 

別に「日本人を守れ」という声に対して、利己的だとか独善的だとか言いたいわけではありません。

 

 

ただ、「日本人を守れ」と言うのであれば、日本国内だけでなく、国外の日本人に目を向けるのは当然ではないでしょうか。

 

 

 

残念ながら、この視点が欠けているように思われるのです。

 

 

 

 

 

 

まだ言い足りなさはありますが、長々となりそうなのでこの辺で。

 

 

 

ですが、もう1つだけ。

 

 

 

「説明責任がなされてない」とメデイアは度々報道しています。

 

 

しかし、それは「ブーメラン」ではないでしょうか。

 

 

 

これは僕の見識不足もあるのでしょうが、今まで僕が、この安保法案に関する報道を見てきた中で、「国外の日本人」に対して行ったインタビューというものを見ていません。

 

 

日本に住む、日本人へのインタビューは毎日のように見ます。

 

 

いってしまえば、食傷気味なくらいです。

 

 

 

「国外の日本人」は、一体今回の法案についてどのように捉えているのか。

 

メデイアは、彼らの声を聞くべきであり、そしてそれを伝える義務があります。

 

何故なら彼らは日本人であり、今回の争点は「日本人の命」なんですから。

 

 

そうした「説明責任」が十分なされていないのが、今のメディア報道だと考えています。

 

 

 

 

 

もしかしたら、これは1つの転換点になるのではないかと考えています。

 

 

パラダイム・シフト」なんて言いますが、要するに、日本人が自身の「思考の枠組み」を変革すべき段階にきており、厳密に言うならば、枠組みのグローバル化=「拡大」が求められているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

あまり政治の発言は控えたいところですが、違和感をより明確にしようと思ってつらつら書きました。

 

 

 

次はオモローなこと書こうと思います!!

 

 

 

 

さいならっきょ。

こみゅにてぃ

こんちは。

 

最近思ったことがあります。

 

 

それは大学入ってから、それまでと比べて属するコミュニティが圧倒的に増えたなあ、ということです。

 

 

高校時代に絞って振り返ると、時間を共有した長さでいえば、部活が最大のコミュニティでした。そしてその次に2年間同じだったクラスが思い当たるくらいで、この2つが主なコミュニティだったように思われます。

 

 

それに対して、現在。

 

 

大学内では、学部、そしてそれとは別に2回生なってから入った専修、そして掛け持ちしている2つのサークルが主なコミュニティ。

大学外では、コンビニと塾講の掛け持ちをしていて、この2つのコミュニティに属しています。

 

 

数だけ見てみても、<高校時代:大学時代=2:6>と倍以上の差があります。そしてあと2年半大学に通うことを考えると、この差がさらに開く可能性は高いです。

 

 

 

じゃあなんで、大学入ってからこんなに属するコミュニティが増えたかというと、理由は大きく2つあります。

 

 

1つは、物理的理由。つまり、単純にフリーな時間が増えたからです。それは、1つのコミュニティに費やす時間が分散されたとも言えます。

 

 

高校は一応進学校で、だから「文武両道」って言葉は当時まあまあ聞かされていました。

 

で、僕はその校風に乗っかる形で、「文」と「武」、それぞれ1つずつコミュニティに属していました。

 

 

「武」に関しては野球部で、「文」に関しては、2年生から卒業まで在籍した特進クラス。

 

まあその中でもさらに「グループ」に属していたんですが、これはあくまでも「グループ」であって、狭い「コミュニティ」という捉え方はしていません。

 

 

 

「グループ」と「コミュニティ」は少し意味が違ってくる、と僕は考えます。

 

 

「グループ」は基本、「コミュニティ」を前提として成立するものです。

 

つまり、「コミュニティ」の中で特に、気が合うなどして、より密接な関係を築き上げた集団が「グループ」ということです。

 

 

要するに、グループとコミュニティの最大の違いは、「集団内に自分がそこまで関係をもっていない人間がいるか否か」だと考えます。

 

 

グループの性質によって、そうでないケースもあるとは思いますが、僕はこのような認識を抱いています。

 

 

 

閑話休題。 話を戻します。

 

 

大学入学後、属するコミュニティが増えた理由の1つを「時間」といいました。

 

 

もうひとつあります。それは、精神的理由で、「コミュニティを増やそう」という意識が少なからず僕の中にあったからです。

 

 

別に時間が増えたからといって、それに比例してコミュニティが増えるわけではありません。

 

その時間を如何に過ごすか考えた際、「コミュニティに入っていこう」という意識があったからこそ、これだけ増えたのだと思います。

 

 

 

ではなんで、そういう意識が芽生えたかというと、これは最初に挙げた「時間」と関係している部分もあります。

 

 

それはつまり、自由な時間が増えるとともに、気持ち的に余裕が生まれた、ということです。

 

余裕が生まれ、少し俯瞰して自分を捉えられるようになり、その上で、今後の大学生活について考えられたというのが理由の1つです。

 

 

 

そして、最大の理由が「人間関係の充実」です。要するに、大学生活をどう過ごすか考えたときに、「人間関係」を大事にしようと思ったのが、コミュニティが増えた1番の理由です。

 

 

 

友達とわいわいするの好きですし、それに違う環境で暮らしてきた人との交流にワクワク感を抱いてたので、そこからきた「人間関係の充実」です。

 

 

 

正直いって、僕はあまり「コミュニティ」が好きではありません。この理由ははっきりと捉えきれていないのですが、大きな集団がニガテなことは確かです。

 

しかしそれでも、僕はあえてコミュニティを増やしていく選択をとりました。

 

何故なら、グループ、もしくは友人を作るにはコミュニティに属するのがどう考えても効率的かつ可能性が高かったからです。

 

 

なので、今は、複数のコミュニティにゆる〜く属しつつ、その中で気のあったり、興味を持った人に積極的に絡んでいって、グループないし友人関係を築いてくという、そんなスタンスをとっています。

 

 

 

つまり、コミュニティを完全に手段化させています。

 

 

 

つい先日、久々に会った友達にこのことを話したら、「ずるい(笑)」と言われました。

 

結構ストレートな指摘だったので思わず「確かに!」って返しました(笑)。

 

 

 

確かに、自分でもこの姿勢はなかなか功利主義走ってるなーと感じます。

 

 

実際、大学入学してから、友人はそこそこできましたが、「居場所」というか、自分が帰属意識を抱くようなコミュニティはまだ獲得していないと思います。

 

 

 

その友達はさらに、「もっとコミュニティに介入して、『おっ、したろ来たな〜』って言われるように頑張れよ〜」とアドバイスしてくれました。

 

 

これに対しては、あまりしっかりと言葉を返せませんでした。

 

 

 

 

 

今回も相変わらず、長々と書き連ねました。

 

整理力もつけていかないとなあという感じです。

 

 

 

 

 

友人、そしてグループといった、気の置けない交友関係を築くための前提として、

コミュニティへの参加があります。

 

 

だからこそ、僕は大学入学してから様々なコミュニティに飛び込んでいるわけですが、そのコミュニティに根を張っているわけではありません。

 

 

 

 

「コミュニティに対して帰属意識を持てないことが、良いのか・悪いのか」についてあれこれ考えているわけではないです。

 

 

ただ、もう少しコミュニティとの関わり方を変えれば、さらに交友関係は充実するんじゃないかなあ、とふと思ったりするんです。

 

 

まあ、「根無し草」だからこそ、あちこち漂うことができるのですが。

 

 

 

「コミュニティとの関わり方」

 

 

また何か答えが出たら、ここにつらつら書いていこかなーって思います。

 

 

 

 

 

さいならっきょ。

 

 

 

SUMMER 合宿

こんちは。

 

9/6(日)〜9/8(火)の3日間、サークル合宿で滋賀県におりました。

 

僕は幹事を務めていたんですが、正直いってグダグダもグダグダでした(笑)。

 

3日間のうち1番印象的だったのは、初日です。

 

 

 

大坂からJRに乗ること1時間弱、滋賀のとある駅に到着し、ドアが開くとそこには一面の緑が、、、

 

 

 

全く見えない程、土砂降りの雨、アメ、あめ、、、。

 

「降水確率60%」という予報に一縷の望みを抱いていた分、ガクッときました。

 

 

 

この日のメインは、小舟で近江八幡を巡り、景観を楽しむ「水郷巡り」という、中々風流なものでしたが、パー。

 

水に親しむどころか、水と渾然一体になるんじゃねえかってくらい、横殴りの雨に打たれ打たれ、どうにか宿に着きました。

 

 

 

どうしようか悩んでいたところ、宿主から情報を受けて、近くのスポーツ施設に向かうことに。

 

メンバー皆をバスで送迎していただき、ありがたかった。

 

 

 

ついてから何したかというと、ひたすら「プール」で遊んでいました。

 

 

雨で、さっきまでびしょびしょになっていた身体で 「プール遊び」 に興ずるという、この、センス。

 

 

 

仰向けになって水面にプカプカ浮かびながら、

「ひょっとしたらこれこそ、本当の『水郷巡り』なんじゃないか」  

 

って悟り開いていました。

 

 

 

しかし、別につまらなかったわけじゃないです。これが非常に楽しかった。

 

最初は、各々自由にスイーッと泳ぎ、しばらくしてからリレー対決。

 

何本かリレーした後、身体がしんどさを訴え始めたところで、「水中伝言ゲーム」なるゲームがスタート。

 

 

ルールは単純で、水中で発言者が述べた言葉をどんどん次の人に同じ要領で回して、最後の人が水上でアンサーする、というものです。

 

コツとしては、泡をなるべく口から出さず、声を「響かせる」のが重要だと、同回生の1人が教えてくれました。

 

実際、そいつの伝言は本当に分かりやすかった。

 

僕含め、他の奴らが泡をゴボゴボ吹き出すばかりで全然伝言を相手に伝えられない中、そいつだけは泡をほとんど出さず、声を水中で響かせていました。

一発で聴き取れたときは本当にびっくりした。

 

 

伝言の中身は、サークルメンバーの中身がそのまま反映されていうような、アホみたいなものばかりでした。

 

中学の保健の授業で習った言葉を、やたら使いたがる中学生と大差なかったです。

「もう中学生」ならぬ、「まだ中学生」(笑)。

 

 

でも、最近雨でずーっと活動できなかったこともあってか、そんなノリに懐かしみや親しみを感じて、ほっこり気分でプールに浮かんでいました。

 

 

プールを終えると、もう夕刻だったので、夜の宴会の買い出しに。

 

その後、これまた宿主の紹介で、宿から徒歩5分の食堂で夕飯。この頃にはもう雨は止んでいた。

 

 

行ってみると、まだ仕込みが済んでいない、ということだったので、時間つぶしがてら琵琶湖の浜に向かうことに。

 

道中、ポツリポツリと雨が降り始めたことに気づき、「こらえろよ〜こらえろよ〜」と祈りを捧げつつ、浜に到着。

 

「海着いたー」って誰かが言っても誰もツッコまないくらいには、海と見まがうような琵琶湖ビューでした。

 

 

しばらくその景観を眺めた後、食堂に戻ることに。

 

すると、突然雨足が強まり、5分も経たないうちにどしゃぶりに。

 

 

「Jesusu....」

 

 

まだ「水郷巡り」は終わっていなかったのかと、メンブレしつつ食堂に駆け込みました。

 

 

 

食堂の店長と店員のお姉さんが全員分タオルを用意してくれて、湿ったタオルの独特な匂いに「人情」を感じました。うれしかった。

 

 

各々食べたいものを胃袋に入れた後、店の2人に重ね重ねお礼を言って宿に帰着。

 

 

そこから宴会場で「宴」スタート。

 

 

先輩が考えてくれた「プロ野球クイズ」をチーム対抗で行ったり、ビンゴゲームで、ビンゴしたのに一発芸当たった奴の即興芸に皆で腹抱えるなど、上下関係を(ほぼ)

忘れて、夜通し楽しんでいました。

 

 

部屋に戻ってからは、トークタイム。

 

「非リア」がウリ(?)のサークルだけど、実は結構皆がんばっていることが分かりました。

 

ただ、「この合宿でリア充自慢できると思ってたのに、、、」って奴が多かったのは、笑えました。

 

 

話題の大半を「恋愛」に焦点をあて、皆のネタが尽きた頃に就寝。

 

 

これが合宿初日の全容です。

 

 

2日目は天気が持ちこたえたので、予定通りに行きました。

 

日中は琵琶湖沿いに行って、浜でビーチサッカーしたり、琵琶湖でバシャバシャやったりして、夜はバーベキュー。

 

3日目は帰るだけだったので、10時頃にチェックアウトを済ませ、昼過ぎに大坂に戻って解散しました。

 

 

 

コンテンツだけを見ると2日目が1番充実しているようにも思えますが、個人的には初日が1番思い出として残っています。

 

 

それは、思いもしなかった悩み、迷い、楽しさ、嬉しさなど、イレギュラーだからこそ生まれた、様々な感情を抱いて過ごした日だからだと思います。

 

そして人の温かみを感じたのも大きいと思います。

 

 

 

 

今回の合宿を通じて感じたことは主に2つあります。

 

1つはこれ、「人情」です。

 

 

僕らが宿をとった町は、見たところ観光業で町を維持しているようでした。

 

ならば、僕らのような観光客は町にとって重要な存在であることは間違いないです。

 

それもあってか、とにかく会う人会う人、皆親切でした。

 

「また来たいな」と、ふと思う瞬間が何度あったことか。

 

 

 

最近、「出会いに感謝」という言葉が、主にSNS上で挨拶のように使われているのを感じていました。

 

 

そういうのもあってか、「出会い」とか「人との繋がり」ってことに対して、まあまあ斜に構えていました。

 

 

でも、今回の合宿を通して、少し姿勢が変わりました。

 

 

別に「出会いに感謝界隈」に対する見方自体が変わったわけではないですが、人との交流で「食わず嫌い」はやめないとな、くらいは思いました。

 

 

 

もう1つは、「旅」についてです。

 

「どこに行くか」「誰と行くか」「何をするか」

 

 

旅の計画を立てる際、僕はこれら3つについて1つ1つ考えて、それらを総合的に判断して最終プランを練ります。

 

 

そして今回の合宿で、「誰と行くか」の重要性について確信を得ました。

 

 

天候不良、プランのツメの甘さなどで、正直「どこに行くか」「何をするか」はむちゃくちゃでした。

 

 

しかしそれでも、旅としては最高に楽しいものになれました。

 

 

それは、「誰と行くか」が機能していたから。気の置けないメンバーと旅の時間を共に過ごすことができたから。

 

 

グダグダなりながらも、特に不満を漏らすこともなくワイワイ楽しんでくれたサークルメンバーがいたからこその、今回の合宿でした。

 

 

 

この合宿で、僕の夏休みの大きなイベントは終了しました。

 

ほぼ終わりかけている夏に名残惜しさを感じますが、これから訪れる秋、そして後期授業を見据えて、落ち着いた生活を送ろうかと思います。

 

 

 

 

さいならっきょ、夏。

 

Time goes by ....

こんにちはは。

 

最近、連日予定があり、外で過ごすことが多かったです。

 

そのせいか、昨日、腕にじんましんが出て「これはヤバいかな〜」と久々に自分の身体を心配する事態に。

 

なので、バイトも予定も入っていないので、今日は完全OFFにして、家でぐうたら過ごしております。

 

 

ちょこちょこ部屋の掃除をして、飽きてきた頃にPC開いて、音楽漁っている感じです。

 

最近のバンドの曲をいくつか聴いた後に、それも食傷気味になり、

「懐かしいの聴くか〜」と、ELTをひたすら聴いてます。

 

 

 

Every Little Thing。 僕世代にとってはやや古いグループだと思います。

 

 

僕は幼少時代、特に4〜5歳にかけて、よくELTを聴いていました。というか、聴かされていた。

 

車のBGMとして、よく親がELTをかけていたんです。

 

今こそ持田さんと伊藤さんの2人で活動していますが、当時は五十嵐さんという方も加えた3人体制でした。

 

主に五十嵐さんが作詞・作曲を担当していて、エレクトニック要素をふんだんに盛り込んだ楽曲が特徴的でした。

 

 

個人的には、90年代後半のELTの楽曲が一番すきですね。

 

 

恐らく、それは歌それ自体の質がどうとかいう話ではなく、単純にこの頃のELTの曲が自分自身の記憶と密接に結びついているからだと思います。

 

だって、聴いてた当時は、別に良いとか悪いとか何とも思っていませんでしたし。

 

 

「また流れてるな〜」

 

後部座席でうとうとなりながら、そんな感想しか抱いていなかったです。

 

 

それが小学校過ぎるくらいになってから、「おっ、なんかいいな〜」と再び、今度は主体的に聴くようになりました。

 

恐らく、4~5歳頃から時間が経ち、今の自分と距離をおいて、その頃の記憶を見つめられるようになったからだと思います。

 

 

 

こういう、「懐かしみ」を感じようと何か歌を聴くこと、3ヶ月に1回くらいあります。

 

 

そういう歌を聴いてると、脳の片隅に眠っている、当時の記憶が曲と一緒に浮かび上がってくるようで、ノスタルジーに浸れるんです。

 

 

 

懐かしみを覚える曲は別に幼少期に聴いた曲に限りません。

 

中学時代、高校時代、そして浪人時代(涙)。時期ごとに聴いていた様々な曲と、それらの時期の記憶が渾然一体となって「思い出」として頭に残っています。

 

 

 

「ないものねだり」じゃないですけど、いつまでも過去に拘るのはあまり好きではありません。

 

しかし、たま〜に、そうした「思い出」がまだどれくらい自分の中に眠っているのか、確認してみたいという気持ちになります。

 

そんなとき、何となく、昔聴いていた曲を掘り起こしてみるんです。

 

 

もう記憶が相当曖昧で、曲だけが鮮明なものとして自分の中に入ってくるときもあります。

 

なんだか寂しいような、でもどこか穏やかな気持ちになります。

 

 

その記憶を、その後の歩みで得た、よりずっと大切な記憶が上書きしたんだなと、過ごしてきた時間の厚みを振り返っているような、そんな気がするんです。

 

 

 

まさに「Time goes by」を感じているんです。(どや)

 

 

 

....では、さいならっきょ〜(笑)

 

「仮決断」という選択

 

こんにちわわ。

 

昨日、大学の先生と2人で飲む機会がありました。

 

その先生とは、大学1回生の頃に知り合い、2回生の今でも関係が続いています。

 

最初はお互いの近況報告をし合い、その後はそれぞれ思っていること・考えていることについて話をしました。

 

 

 

先生の話の中で、特に印象に残った内容があります。

 

 

それは、「仮決断」という考え方です。

 

 

これは、僕が将来就く職業について話をしていたときに、先生の口から出た言葉です。

 

「将来、どうするつもり?」という先生の質問に対して、僕は「書く仕事に就きたいなあとは考えています」と答えました。

 

その答えに対して、先生が述べたのは「仮決断」という考えです。

 

 

 

どういう意味か。

 

これはつまり、たとえ明確な目標が定まりきっていなくても、「とりあえず」決断を下して、1つに絞れ、ということだそうです。

 

僕の例で言えば、ただ漠然と「書く仕事」と決断を保留するのではなく、その中でも「新聞記者」「雑誌編集者」「コピーライター」と、1つに絞るという決断をしろ、ということです。

 

 

 

何故か。

 

1つは、一旦決断して、選択した対象

に向かって取り組んでいくことで、対象に深く入り込むことができるからです。

 

 

「仮に」僕が将来の職業を「新聞記者」に定めたとします。そして、どうにかツテで新聞記者の方とお話する機会を得たとします。

 

恐らく、「書く仕事」という漠然としたビジョンを抱くのに留まらず、「新聞記者」という決断をした僕に対しては、相手は「新聞記者」という職業について込み入った話をしてくれるでしょう。

 

 

 

そしてもう1つは、対象に深く入り込むことで、自分にとってその決断が合っていたのかそうでないのかが分かり、次のステップを踏むことができるからです。

 

 

つまり、あくまでも「仮」決断なので、途中でおかしいと思ったら、また新たに決断し直すことができるのです。

 

僕が新聞記者の方と話をする中で、「自分には合ってないかな」と思ったり、或は「君には向いてないよ」と言われたとします。

 

その場合、それでも新聞記者を目指すのもありですが、同時に 「じゃあコピーライター目指すかあ」というように、決断し直すことも可能である、ということです。

 

 

この考えは、僕が「大学生」というモラトリアム期間だからこそ大切にすべきものだと先生はおっしゃっていました。

 

 

 

「モラトリアム」という言葉は社会学者のエリクソンが提唱したものです。

 

「執行猶予期間」と訳されるように、「モラトリアム」という言葉に対して、何も決断せず、ふわふわ漂っているイメージを抱いている人が多いのではないでしょうか。

 

僕も今までそのような捉え方をしていました。

 

しかし、エリクソンの言う「モラトリアム」とはつまり、決断を免除されている期間ではなく、むしろ「仮決断」を絶えずし続ける期間を意味しているのだ、と先生はおっしゃっていました。

 

これは大きな違いだと、僕は驚きました。

 

と同時に、この考えは「取り返しがきく」ということを前提としているのに気づきました。

 

大学生という、失敗しても取り返しがきく期間だからこそ、「仮決断」を繰り返して軌道修正をする、という選択をとれるのではないでしょうか。

 

そしてその軌道修正の末、最終的に1つの「決断」ができればよいのではないでしょうか。

 

 

先生は以前「大学生からは、塑像型の自己形成をするべき」と僕におっしゃいました。

 

塑像は、一本の木をそこから「削る」ことで1つの像となったものです。

 

要するに、「何ができるか」ではなく、「何ができないか」 で自己形成を図れ、ということです。

 

 

今回聞いた「仮決断」の考えは、この「塑像型のキャリアデザイン」と結びつけられると思いました。

 

つまり、自分は「何ができないのか」を把握するために、私たちは「仮決断」をしていく必要があるということです。

 

「仮決断」を通して「自分を削る」、そして軌道修正をしていく中で最後まで残った要素こそ、自分の核と言えるのではないでしょうか。

 

 

 優柔不断な僕ですが、この言葉を頭の片隅に置いて、まずは残り一ヶ月弱の夏休みを過ごそうと思いました。

 

 

では、さいならっきょ〜

 

 

 

 

そうだ、コンビニ行こう。

こんにちは。

 

久々の投稿。

 

最近、コンビニバイトを始めました。今日で丁度2ヶ月目くらいですかね。

 

主な理由は「イエチカ」だったからです。

 

 

実は6月まで梅田のカッフェ(!)で働いていたんですけど、通勤に45分かかるのがネックでした。

特に朝のシフトに入るもんなら、4時起き不可避です。不可避、、、。

憧れとステータスだけを考えて都会のカッッフェ(!)を選んだ、自分の短絡さに嫌悪しながら通っていたのを覚えています。

 

 

半年間続けていましたが、「もうカッッフェええわ!」という気持ちが5月頃から強まっていました。

 

すると突然「コンビニ」というワードが頭に浮かんだんです。

 

神からの啓示が舞い降りたのだと、確信しました。 

 

というわけで、「そうだ、コンビニ行こう。」となったのであります。

 

 

シフトは、早朝しか入っていません。昼は学校があるため無理で、夕方・晩は余裕がある曜日がちょこちょこありましたが、全く入れませんでした。

 

何故か。

 

 

自分にとってバイトする最大の理由は「金・かね・カネ」です。

 

しかし、同時に「バイトは時間の切り売り」という考えも僕の中にあります。

 

要するにバイトするにあたって、僕は「金」と「時間」の板挟みにあったというわけです。

 

 

「なら、どうしよか」と考えた末、「金か時間か」ではなく、「金も時間も」って結論に落ち着きました。

 

なので早朝2〜3時間程度働いてお金を稼ぎつつ、学校が終わる夕方以降の自由な時間を楽しむ、というスタイルをとっています。

 

 

 

「大学生は時間はあるがお金がない、対して社会人はお金はあるが時間がない」という言葉を周囲の人、ネット等、あらゆるところから聞いてきました。

 

確かに比較的に捉えるとそうなのかもしれないです。しかし、だからといって大学生活をバイト漬けにしたら、今度は時間がなくなるという本末転倒になりかねません。

 

(まあこんなこと言えるのも、バイトで学費を稼ぐ必要のない身分だからなわけで、親には感謝してもしきれないです。)

 

 

要するに、「バランス感覚は大事」ってことですかね。

 

これは、1つのことに囚われすぎて身動きがとれなくなることが多い、自分に対する自戒でもあります。

 

 

 

長くなったので今回はここら辺で。

 

前まで、記事投稿するにあたって「テーマ設定しなきゃ!」「てにをは、しっかり点検しなきゃ!」と変な真面目さを以て書いていました。

 

でも、今回以降はもーっと、ゆたーり、のんびーりと書いていくつもりです。

 

それこそ「書かなきゃ」ってことに囚われていたら、なんだか頭が凝り固まりそうで。

 

 

では、さいならっきょ〜〜

 

「充実」=「多忙」?

ちわ。

春休みもおちまい。

来週から専修別ガイダンス開催、履修登録開始など今一気に現実(=大学)に引き戻されつつある。


この春休み振り返ってみてまず思うのは

「疲れた」

この春休みは、人生で初めて(恐らく)主体的にタイトなスケジュールを組んだ。


というのも、高校までは部活三昧だったし、浪人は勉強三昧だった。

というわけで休みは今までもタイトではあったけど、比較的決められたスケジュールを過ごしていた印象があるからだ。

それが大学生活がスタートしてから一転した。

夏休み、冬休み共に始めから定まっている予定はほぼ皆無。

入学するまであれほど求めていた「自由」を手にした途端、どう扱えばよいのか見当つかないというなんとも贅沢な悩みが生まれた。


テレビとかゲームとかいくらでも暇つぶす手段は転がってたんだろうけど、
「大学入ったらそういったものとはおさらばだ!」
っていう変な意地張ったことでその悩みは一向に解決されることなく...
(その時間をSNSにあてているんだけど...)


結局夏休みも冬休みも2,3週間程度帰省して、特に目的意識も持たずに漫然と時を過ごしていた。

本を読む,ということだけは意識していたけど、それでも最後まで読み切った本は片手で数えられる程度。




そうこうしている内に、後期の期末テストが終わり、春休みを迎えることに。



春休み入る前から旅行やバイトなど、ある程度予定ができてはいたが、生活に大胆な変革を求めていたので、思い切って詰め詰めのスケジュールにすることにした。


バイト、講義、サークル、旅行、飲み会、バイト、講義、サークル、旅行、飲み会、バイト、、、、、、、、。


2月中旬から3月末までこの調子で最後まで突っ走った。


今スケジュール帳を見返したが、完全予定0の日は2日だけだった。


スケジュール帳だけを見たらなんとも「充実」した春休みだったような気がする。




でも自分の中で抱く気持ちは



「充実した」よりも「疲れた」



こんなこと言うと「気持ちの持ちようでしょ」っていわれるかもしれないけど、今回はどうもそれとは違う気がする。


ならなんでそう思うのか説明しろと言われても、はっきりと答えられそうにない。


でも一つだけ言えるのは、イベントを自己点検する時間が明らかに足りなかったということ。


つまり自分のやった行為を自分で振り返り、反省する時間を全然設けられなかった。これが充実感より疲労感を抱いた理由の一つだと思う。



例えばインターバル(休養日)なしでスポーツを続けるとしよう。


疲労はどんどん蓄積され、その上自分のパフォーマンスを反省する時間も充分にないままどんどん先に進んでいくので、とても非効率といえる。



同様に、暇(休暇)なしで予定を詰めても、疲労は溜まるのは当然のこと、何より自分が消化したイベントを振り返る時間を充分にとれないまま、また次のイベントがやってくる。
そのため予定を上手く回すというより、こなすことに精一杯になってしまう。




記憶っていうのは、時が経つに連れて薄れていくし、何より美化されがちだ。



だからこそ、まだそれが鮮明なうちに内省し、次の行動に繋げる必要がある。



それを積み重ねていくことで、自分が何をしたら本当に「楽しい」と思えるのか分かってくるだろうし、それを分かることが「充実」なんじゃないかなぁと。


春休みはこうした作業が全然足りなかった。




2回からは専修に移って、1回より忙しくなるだろう。
だからこそ休養、そして自己反省するための暇をしっかり設けることを意識して日々過ごしていきませふ。





さいならっきょ