ドキュメンタリー「FAKE」を観て
今晩、友人と十三の映画館に行って、あるドキュメンタリー映画を鑑賞しました
映画館はこちら↓
TVで宣伝されるようなメジャーな映画は扱っておらず、ドキュメンタリーを中心にニッチな映画を上映しているみたいです
今回観たのは、森達也監督によるドキュメンタリー映画「FAKE」
騒動後の佐村河内氏を追った内容になっています
(後で友人から聞いて知ったのですが、この監督はオウム真理教を追ったドキュメンタリー映画「A」を撮った方なんですね!)
騒動の発端となる告白をした新垣隆さんや
週刊文春にその告白記事を発表し、また記者会見で佐村河内氏にちょっかい(?)をかけた、ジャーナリストの神山典士さんなど
久しぶりに存在を思い出す方がチラチラいました
(佐村河内氏の視点から語られているため、上記の方々の発言が虚妄であることを佐村河内氏が強調するシーンが時折見られました)
僕が特に印象深く残ったシーンは3つほどあります
1つ目は、年末のバラエティ番組で自身が取り上げられているのを、佐村河内氏が無言で見つめているシーン
メディアが大きく取り上げた騒動が「ネタ」として、つまり面白いコンテンツとしてテレビで扱われている様子を、その騒動の「当事者」が見ているという構図
見ていて正直気持ち悪かったです
こうした嫌悪を抱く理由について考えてみました
恐らく、そうしたネタを見ているとき
「ネタにされている当事者が存在する」
という視点を自分が全く欠いていることを突きつけられた感覚に陥ったからだと思います
「引越しおばさん」を芸人がものまねしているのを見てゲラゲラ笑っていたあの時
「その映像を本人が見てるかもしれない」なんてこと、想像すらしませんでした
「人」ではなく、「コンテンツ」としてその人を捉えること
想像力の欠如がもたらすそうした態度について考えさせられました
2つ目は、佐村河内氏の父親がインタビューを受けるシーンです
一連の騒動によって、それまで親しくしてきた友人がどんどん離れていった
佐村河内氏の父親はインタビューで淡々と語っています
このシーンでも、同様な嫌悪感を抱きました
理由は恐らく同じで、「想像力の欠如」にあると思います
メディアに叩かれることで、当事者だけでなくその周囲の人達まで社会的制裁を受けてしまう
そうした考えは、騒動をニュースで見ていた当時の僕にはありませんでした
映画を見ながら「ともだち」という概念について考えていました
佐村河内氏の父親は、一番の親友さえも離れていってしまったそうです
「ともだち」であることに条件を付けてしまうとどうなるか
その条件が悪い状況になった場合に「ともだち」が離れてしまう
そうした事態が発生するのではないでしょうか
だから、僕は本当に大切にしたい友人に対しては、「ともだち」であることの条件をつけたくない
「ただ一緒にいたいから」ということで繋がる間柄でいたい
損得感情・理屈抜きの関係を築いていきたいです
3つ目は映画のラスト、妻が見守る中で佐村河内氏が自身で作曲した曲を流しているシーン
ゴーストライター騒動により、佐村河内氏もまた400人いた友人が一気に離れてしまったそうです
(どういう基準でそういう人数になるのかわかりませんが、、)
そうした中で、佐村河内氏の妻は彼にずっと寄り添い続けました
「妻がいなければここまで来れなかった」と佐村河内氏が語っていたように、二人三脚で作り上げた曲だと感じました
それを象徴するような、ラストの2人を映し出したシーンが非常に印象深かったです
見終わった後に、こうして振り返りたくなるような映画は中々ないので、非常に新鮮な気持ちになれました
にしても、自分がネタにされているTVを佐村河内氏が見つめるシーンは未だに頭から離れません
小学生のなりたい職業1位が「Youtuber」だという時代の中で
人が「コンテンツ」として消費されやすい時代だからこそ
「人を人としてみる」という姿勢を崩さないように気を引き締めなければならないなぁと自戒の念です
「コンテンツ性」という概念に縛られないように
さいならっきょ