文学部生・したろうのなかみ

頭の中だけはここで整理整頓

だいばーしてぃ

今週は集中講義といって、他大学から先生を招聘して、講義をしてもらう期間。

 

前期もこうした期間が設けらており、めんどうだったので僕は受講しなかった。

 

「出前授業」って響きに何となく惹かれはするのだが、どうしても惰性が知的好奇心を上回ってしまう。

 

 

そういうわけで今回も受講はせず。

 

期間中は通常講義は休講になるので、かなりまとまった時間が生まれる。

 

 

なにしよかなー、映画でも見るかー、いや音楽漁りまくるかー、と先週末にあれこれ考えていた(頭に浮かぶのが全てインドア系だったと今書いてて気づいた、、、)。

 

 

で、結局何してるかというと、「読書」。

 

 

二回生入ってから意識して本読むようにはしていたけど、最近は特にそれが顕著になっている。

 

これといったきっかけは浮かばないんだけれど、1つ言えるとしたら「教養を深めたいから」

 

 

この「教養」が具体的に何を意味するのか、正直よくわからない。まずそもそも「教養を深めたい」という言葉もイマイチ捉えづらい印象を受ける。

 

 

なんというか、それは恐らく測定できるものじゃないから。

 

 

「この数値まで到達したら、あなたは相当教養を深めたと言えるでしょう」といった、教養の到達度を示す「基準」なんてないから。

 

 

じゃあなんでそんな捉えどころのないものを僕は追いかけているのか。

 

 

直球で申し上げると「頭が良くなりたいから」。

 

 

なんでこう思うかというと、これまた単純で「これまであまり頭を使ってこなかった」という自覚があり、「だから頭が悪い」という結論に至ったから。それをどうにか払拭したいから。

 

つまり、これまでの人生で全然頭を使ってこなかったことへの「後悔」が、僕の読書活動をするきっかけ。

 

 

 

自分の人生を振り返ったときに、何かしら「後悔」の念にかられるんだけど、人生における具体的なケースに注目するか、それまで過ごしてきた「人生」を一括りにして注目するかで「後悔」の質も変わるんじゃないかなあと思う。

 

 

 

まず過去の具体的なケースへの注目について説明。

 

 

例えば部活の最後の大会、自分のミスでチームが負けたとき。「あのとき、ああしてればなあ」と自責の念にかられるはず。

 

 

こうした「後悔」っていうのは、ある出来事に際してとった自分の振る舞いに対して向けられるものである。

 

 

 

 

対して、こうした具体的ケースの総体である「人生」を1つのものとして捉えるときもまた「後悔」っていうのは生まれる。

 

 

 

その「後悔」は、ある出来事における具体的な行為にではなく、そうした行為を今までとってきた自分自身の「性質」に向けられるものなんじゃないかな。

 

 

 

 

 

 

要するに、過去のエピソード1つ1つに注目するのか、それともそうした出来事をひっくるめた「人生」という大きなまとまりに注目するかで「後悔」の向く先が自分の「行為」と「性質」それぞれに分かれるんじゃないかなってこと。

 

 

 

そろそろさっきの話に戻りたいと思う。

 

 

 

僕が自分の人生を真剣に振り返ったのは、浪人を経て大学に合格した直後だ。

 

 

 

なんでそのタイミングだったかはイマイチ分からないが、大学合格という1つの「成功」によって、それまでの人生が幾分か「上方修正」されるのを本能的にストップさせたかったんじゃないかな。

 

 

あれこれ考えた結果

 

 

「自分は今までの人生を通して、自力で物事を考えない、頭を使わない人間だった」ということがはっきり分かった。

 

 

 

一応は頭使って大学に合格したという自負が少なからずあった分、正直結構こたえた。

 

 

すごく情けなかったし、悔しかった。

 

どうにかしてこの思いを晴らしたい。

 

それを一心に大学に入学した。

 

 

だから大学入ってから今まで、常に念頭に置いてきたのは「教養」であり「学問」であり「勉学」だったんだと思う。

 

 

この僕のスタンスに対して「『頭良い』って、そういうのを指すんじゃないと思う。」といったような意見は当然起こると思われる。

 

 

例えば、物事をどれだけ要領よく処理できるかをもって「頭が良い/悪い」と考える人もいるだろう。

 

 

しかし、僕にとっての「頭が良い/悪い」の第一義は、上に述べたような「勉学」を軸に据えたものである。

 

 

具体的には「難解な文章、思想をどれだけ自分の中に落とし込めるか」などが自分にとっての「頭の良し/悪し」の判断材料だ、ということだ。

 

 

「頭の良し/悪し」に関する前者の主張、後者の僕の主張、どちらが「正しい」なんてことはないはずだ。

 

 

それこそ「頭の良し/悪し」っていうのは多様な捉え方があるだろうし、だからこそ「正解」を作ることで意味を一義にしてはならないと思う。

 

 

 

「へ〜、あの人はそう思っているのか〜。ま、僕は違うけどね」くらいのノリが大事なんじゃないかな、「価値観」に対するスタンスって。

 

 

いちいち「いやそれはおかしい!」って目くじら立てるんじゃなくて、放っておく。違和感抱くような他人の価値観は。

 

 

 

大学入ってから「多様性」って言葉チラチラきくけど、別に「相手の価値観を受け入れる懐=多様性」ではないと思う。

 

 

あまりにも理想すぎて、全然現実味がない。

 

 

恐らく前提がおかしいんだと思う。

 

 

相手の価値観をどうにかして受け入れることが多様性だと考える人は、「人はわかりあえる」っていう前提があるはず。

 

 

でも僕は「人はわかりあえないもの」という前提にたっているので、「わかりあえないやつは放っておく」というスタンスが多様性を示すという考えに至る。

 

 

 

まあ、だからといって「他人の価値観を受け入れる=多様性」だという考えを抱く人の価値観を否定するつもりもないし、受け入れるつもりもない。

 

 

 

ただ、そっとしておくだけ。

 

 

 

相変わらず話しが転々としてしまった、、。

 

 

ほんで、「頭がいい」とは「難解な文章や思想を理解できること」だと思い、そこから読書するようになったんだけど

 

 

少し気がかりなのは、最近においてはそうした側面に加えて、「何かをしないため」という理由で読書をしている側面もあるよなあということ。

 

 

 

要するに「読書”さえ”していればよい」という、半ば「読書原理主義」に陥りかけているということ。

 

 

 

これはこれで思考停止している気がするし、どうにかせんとなあと思う。

 

 

 

まぁ、こんなことにあれこれ考えを巡らせられる時間と余裕がある大学生活は神ってことで、もう寝ようかな(笑)。

 

 

 

明日は久々に街にでようかな。