「過剰」であることへの意識
最近、いい調子で日々を過ごせている気がする
体もそうだが、特に精神面で健康な状態を保てている
なぜなのか考えてみた
この前記事でも書いたが、「深呼吸」するようになったのは恐らく一つの理由だと思う
深い呼吸をとることで、心と体をリラックスした状態に保つ意識が高まっている
しかし、それだけではないだろう。それだけではまだ頭の中がスッキリしない
もっと目に見えない、抽象的な部分に根源があるのではないか
そうした仮説に基づいて、モヤモヤを捉えるべく、もう少し考えてみた
一つの結論として、「自信」にたどり着いた
最近になって、これまでよりも自分に対する自信を持つよう心がけている
何故かというと、「自意識過剰」な考え方をどうにか脱却したかったから
「こう思われたらどうしよう」「裏で笑われるのかもしれない」
まだ何も言動を取っていないうちから、そうした過剰な自意識に基づいた「被害妄想」を行い、ついつい相手のマイナスな反応を想定する
そして結局何もしない
残るのはドロンとした、自分に対する不快な感情
そういうパターンをこれまで何度も繰り返してきた
リスクを想定して、言動を慎むべき機会は当然あると思う
ただ問題なのは、自分はそうした選択をとりすぎていた
またそれだけでなく、自意識に基づく「自分語り」もちょくちょくしていた
具体的には、ノート、アウトライナーなど媒体は選ばずに、暇が出来た時に「自分」についてとにかく書き散らす
たださっきと同様に、別にその行為自体が悪いとは全く感じていない
実際、垂れ流した後は何となく気分もスッキリしていたし、良い効果を実感できていたこともあり
しかし、そうしたアウトプットを行う頻度が自分は多すぎた
酷かったのが今年の6月で、ほぼ毎日アウトライナーに「自分語り」を書き散らしていた
月末、その一ヶ月の「成果」をザッと目に通したとき、正直ゾッとした
「流石にやりすぎではないか」というそのときの感想は今でも覚えている
最初は気分を楽にするために行っていた「自分語り」が、いつしかやらなければならないような、強迫観念を抱えながらのものになってしまっていた
「自分語り」することそれ自体を目的に置き、半ば義務感で遂行しているうちに、じわじわとストレスが溜まっていったように思われる
自分を省みることで、今後どう過ごしていくのかといった指針を立てられると思うし、「自意識」を持つことそれ自体が悪影響を及ぼすとは考えない
ただ何にせよ、「過剰」はあまり良くないということなのかもしれない
「過剰」な自意識に基づく、「過剰」な「被害妄想」・「自分語り」によって心の健康を害してしまった経験から僕が思うことである
一旦まとめると
自分はこれまで「過剰」な自意識を抱えており、それが結果として自分の精神衛生に悪影響を及ぼしていたと考えている
ではそうした「過剰」な自意識を捨てるために、なぜ僕は「自信」という結論に至ったのか
それは、そうした自分への過度な注意・関心は、自分に対する「自信のなさ」から生じるのではないかと思ったから
自分の考え、発言、行動、そうした自分の中から生まれるあれこれに対して自信を持つことができていなかった
そうした自信のなさ故、他人の言動を警戒して「被害妄想」に走り、また不安を拭うための自己点検として「自分語り」を絶えず積み重ねていった
なので、「自分に自信を持つようにしよう」と決意し、冒頭に至る
と言うほど上手くコトは進まなかった
まずそもそも、なぜ自分に対して自信が持てないのか
その問いに答えなければならないと感じた
結論として一つの答えを見出したのだが、それはまた別の機会に
そのステップを踏まえて、自分に自信を持つよう日々心がけるようになった
すると、徐々にではあるが、自分について意識を向ける機会が減っていった
そしたら想像以上に時間的・精神的余裕を作れるようになった
それだけ、以前は自分についてあれこれ考え・精神をすり減らしていたのだろう
こうして生み出した余剰をどう使っていくのかはまだ定り切っていないが、ひとまず趣味活動中心に充てている
精神衛生を悪くする時間を減らし、その分やりたいことやる時間を増やしているのだから、そりゃ良い調子にならなきゃおかしい話だ
まぁ趣味活動も自己完結であることに変わりはないが、自分を満足させられる時間である点は大きく異なる
自意識を低めたことで、もう一つ自分の中の変化を感じている
それは内への意識が薄まるにつれ、反対に外への意識が強まっている感覚を持ちつつあることだ
もの・自然・人
そうした自分の外に存在する諸々に対しての関心が高まっている
こうした意識の変化をどう良い方向に持っていくか、今後もブログを更新する中で随時考えていきたい。
やりすぎに注意
さいならっきょ