「怖い」と思わないのは「怖い」
神奈川は相模原で事件があった。その被害人数の多さにただただ驚愕した。
世界規模で見た時、1人の人間による、想像しがたいケタ数の被害者を出した事件が最近ちょくちょく発生している気がする。(この前のパリでの一件もそうだろう。)
今回の事件の残虐性は確かに怖い。しかし、それ以上にそうした事件に対する妙な「慣れ」を抱きそうな自分自身に対する怖さがある。
何かに恐怖心を抱く理由として、対象が「よく分からないもの」だから、ということは挙げられるだろう。
「分からない」「変だ」「おかしい」
こうした違和感に基づいて私たちは時として恐怖心を抱く。
逆に、違和感を抱かないことによって、打ち消される恐怖心もまた存在する。
今回起こった事件に対する違和感を自分の中でしっかり留めておく必要があると感じた。
そうしないと、「怖い」という感情の閾値がどんどん上がっていってしまう。
つまり、ある事件に対して、違和感を詰めることなく、それをなんとなくスルーする。
すると、その事件レベルの残虐性への恐怖心というものを抱かなくなる。
そして、より残虐性の高い事件じゃないと恐怖心を抱けなくなる、ということだ。
だから、今回の事件に対して違和感を抱いたがそれを無視する人は、もしまた今回のような事件が発生しても
「まぁ最近こうした事件多いしな」とそこで思考をストップさせてしまうだろう。
「怖い」と思わないことへの恐怖心が、自分にとって違和感を突き詰める原動力なのかもしれない