文学部生・したろうのなかみ

頭の中だけはここで整理整頓

なんとなく、「モヤモヤ」

こんちは。

 

約三週間ぶりの投稿。

 

演習授業での報告発表の準備がてこずっていたので、暫く放置していた。

 

一昨日本番があり、無事死亡。

 

 

反省点を一つ一つあげてたらキリがないので、一つだけ。

 

ゴール設定の重要性は実感した。

 

今回の発表にあたって、結構自分なりに時間かけて準備してきたつもりだった。

 

けど、実際は、立てたテーマに批判を受けるどころか、その前提の情報収集の甘さを指摘されるような始末。

 

 

要するに何が言いたいかというと、「頑張りどころ」が全然的外れだったということ。

 

 

何故か。最終目標を掲げて、それに向けてどういった取り組みをしていくかという、当たり前といえば当たり前のことを怠ったから。

 

まずはとにかくゴール達成を最優先にする。その点を踏まえると、「結果が全て」って言説はそこまで暴論に思えてこない。

 

 

 

 

 

 

最近特に思うんだが、自分は「基礎基本」を本当におろそかにする傾向がある。

 

今回の課題への取り組みに限らず、勉強、スポーツ、バイト等々、、、。

 

「こんぐらいでいいかなー」ってつい思ってしまう。

 

でも実際は、8割程度押さえたくらいじゃ基礎を「固めた」とは言えないんだよね。

 

 

 

「マニュアル人間」って、やたら否定的な文脈でよく見るけど、まずそもそもマニュアルすらこなせない人が臨機応変な対応できるのかという話。

 

 

まぁ自分は基本ができていると思っているからこそ、こういった批判をするんだろけど。

 

 

 

・・・というわけで、なかなかボロボロな報告だったわけです。

 

 

しかし、終わったことで大分時間と心に余裕が生まれたので、最近思ったことを整理しよかーと思った次第。

 

 

最近、「構造」についてちょっと考えてた。もっというなら「思考の枠組み」かな。

(全然具体的じゃないのはあしからず。)

 

考えるようになったきっかけは、、、

 

「これ!」といえることは浮かばないんだけど、いろんなコミュニティと関わっていくうちに、徐々に言い知れぬ違和感が芽生えてきて、それが開花したって感じ。

 

その違和感を言語化するとこうかな。

「その行動って、本当に自分の意志に基づいたものなのか?」

 

何が言いたいかというと、自分の意志で行動しているつもりでも、その行動、なんなら意志って、実は自分の属している社会集団によってある程度規定されてるんじゃないかなってこと。

 

コミュニティって、同じ考えや価値観もった人で構成されているわけではないはず。

 

でも、その社会での通念というか、共有された偏った考え方は存在するんじゃないかなとは思う。

 

具体的に考えてみる。

 

例えば、僕は現在、大学で文学部に在籍しているけど、同期、先輩話と就職の話をしていると、よく「公務員」という言葉を聞く。

 

実際、僕の学部を卒業した方々の就職先を見てみると、他学部と比べて公務員が多い。それに続いてインフラ系、教員といった感じだ。

 

 

学部の気風、それは当然関係していると思う。市場からかなり離れたところで学問しているところだし。

 

 

文学部disへのカウンターとして、「役に立つものだけが学問ではない」っていう、もはやテンプレ化した言い分をよく聞くけど、それって自分たちが取り組んでいる学問が市場原理とは関係ないことを認めているってことだしね。

 

こうした背景があって、公務員や教員が多いっていうのは、まあわからんでもない。

 

でもここで違和感が生じる。

「文学部での学びは市場から離れている→民間ではなく、役所勤め」って、よく言えば一貫性あるけど、これって本当に文学部コミュニティによって規定された考え方だよね。

 

「朱に交われば赤くなる」ってことわざがあるけど、「コミュニティにどっぷり浸かるうちに、自分の価値観や考え方がそのコミュニティでよしとされるものにすり寄っていく」って意味だと解釈している。

 

 

「元々赤かったのか、それとも赤に染められのか」

この違いは重要なんじゃないかと思う。

 

元々文学部の気風とマッチしていた人もいるだろいうし、そうでない人もいるだろう。

 

 

僕が言いたいのは、「他人の敷いたレールには乗りたくねえ!」ってことじゃない。あるコミュニティの価値観が、自分が持つそれと似ているなら、わざわざ脱線する必要なんてないし。

 

だけど、そのレールに乗るにせよ、外れるにせよ、一度立ち止まって考える必要がある。

 

こういうこと考えるようになったのも、大学入学をきっかけに長年住んでいた鹿児島を離れて、地元での生活を相対的に捉えられるようになったからかな。


じゃあどうすれば構造に呑み込まれずにいられるか。



「違和感」に敏感であることが肝要だと思う。


誰かの言動を受けて、全然納得いかないわけではないが、なんとなく「うーん」と思うこと、まあまああるはず。


その心の動きを見逃さない。何で「うーん」と思ったかをとことん追求してみる。


論理的におかしいから違和感抱いたのか、それとも価値観が合わないからか、原因を突き止める。


それは自分と他者,コミュニティーの「考え・価値観を」しっかりと”棲み分ける”ことに繋がる。


「あー、あの人はそう考えるわけね。でもなーんかモヤモヤ。なんでモヤモヤするか考えよか」


「モヤモヤ」を「モヤモヤ」として片付けない。そういうものだと割り切らない。


「違和感を大事に」


自分の中の「モヤモヤ」に敏感であるように、もっと日頃からあらゆる方向にアンテナはっておかんとなぁと思う次第である。