「嫌なら見るな」を言うな
こんちはー。
大学の後期が始まってはや一週間。
各講義のガイダンスも終了し、もう完全にバカンスモードは消え失せた。
ちょっと多めに講義を取った気もするけど、面白い講義がいくつかあったし、今期もまあ何とかなるでしょ、っていうスタンス。
ここ一週間、「表現」について少し思うことがあった。
きっかけは、ネット上で見かけたとある絵。
その絵は、不敵な笑みを浮かべる「難民」の少女を描いていたんだけど、最初に見たときすごい嫌悪感に襲われた。
何より、絵と一緒に添えられていた言葉があまりにも酷かった。
「偽装難民」に対するメッセージなんだろうけど、理解したところで、その絵に対する嫌気は全く消えなかった。
恐らく作者は「風刺画」としてそうした表現をとったのだろう。
しかし、そもそも「風刺」に全然なっていない。
「風刺」は、社会における権力者=「強者」に向けることによって、その役目を果たす。
その役目とはつまり、ある権力者がやっている横暴な振る舞い・態度を絵に映し出すことで、社会にそうした事実をアピールすると同時に「客観視」をその人に促すという役目だ。
それを踏まえると、今回の難民の絵は「風刺画」とは到底言い表せない。
弱者に対して向ける圧力は、単なる「イジメ」だ。
そうしたことを考えているうちに、その絵を書いた人のFBでの発言を見つけた。
「芸術」だとか「表現の自由」だとか述べていた。
ある作品が「芸術」たりうるか、ということについては正直まだ考えが整理されていない。
しかし、「表現の自由」については、やや整理がついた。
まず結論として、「表現の自由」≠「何を書いてもよい」ということだ。
もしかしたらすごく基本的なことなのかもしれないが、僕自身、今まで文章を公の場に投稿する中で、足りていなかった点のように思われる。
このことを説明するのに、次の言葉を参考にしてみたい。
「嫌なら見るな」
これはつまり、自分が表現した内容に対して嫌悪感を示すくらいなら、最初から触れなければいい、という、表現者側の言い分である。
僕自身、最近までこうした考えは多少抱いていた。
見たい情報と見たくない情報を「棲み分ける」、それは受け手にとってリテラシーと関わる重要なスキルとさえ思っていた。
しかしこの考えは間違っていたと、今は言える。
こうした主張の前提に「表現の自由」に対しての歪んだ解釈があるのだと気づいたからだ。
「自由」とは「無制限」ではなく「制限」されている概念だ。
例えば、「道路」について考えてみる。
「田舎で自由に車乗り回したいなあ」
なんてことを思うときに、僕たちの頭に浮かぶ映像は何であろうか。
それは草木が生い茂った「あぜ道」ではなく、しっかりと舗装された「道路」ではないだろうか。
たとえ人口の少ない田舎に行っても、そこに車が走れる道路がなければどうしようもないだろう。
そのような状況は「自由」ではなく「不自由」でしかない。
「道路」という制限された範囲でのみ、僕たちは「自由に」ドライブを楽しむことができる。
何かを基準に範囲を規定されることによって「自由」は成立する。
これを踏まえると「表現の自由」=「何を言ってもよい」とはならないはずだ。
では表現を制限する基準は何だろうか。
ありきたりにも思えるが「倫理的」であること、これに尽きる、というのが現時点での僕の考えだ。
すごく抽象的だが、例えば「他者への配慮」がなされていることである。
今までネットに文章を投稿する際「他者への配慮」が僕には欠けていた。
それは「嫌なら見るな」という、「自由」をはき違えた主張に基づく。
これについては後悔と反省しかないなと思っている。
ツイッターに「ミュート機能」ってあるけど、どうなんだろうね、あの機能。
「嫌なら見るな」を認める側面もあるし、そうした主張を正当化させる側面もある気がする。使い方次第といえばそれまでなんだけど。
「嫌なら見るな」を言うな
今回考えたことが、今後の自分の行動にどう結びつくか、或は全く結びつかないか、しばらく様子みよう。
相変わらず稚拙な文章になったけど、とにかくどんどん書いていこうと思う。
さいならっきょー