「日本人」って?
こんちは。
テレビで連日、国会が中継されていました。安保法案の採決の動向をカメラがずっと追っていました。
そしてついこの前、「強行採決」という形でひとつ収束を迎えました。
この法案に関して、反対意見もあれば、当然賛成意見もあります。
テレビに限定していうならば、反対側の意見を聞く機会が多かったです。
そして、その中で僕がどうしても違和感を抱いた意見があります。
「日本を守れ!『日本人』を守れ!」
声高々に国会前で叫ぶ人。それに続きわき上がるシュプレヒコール。
僕はこれを聞いたときに、言い知れぬ違和感と嫌悪感に襲われました。
そしてその後、その原因について考えてみました。
結果、「日本人」という枠組みの捉え方において、賛成側の方々の捉え方と僕のそれとで齟齬が生じているからだ、ということが分かりました。
「日本人」
この言葉をどう捉えるか。
どうも賛成側の方々の意見を聞いていると、この「日本人」という言葉に対して、
「日本に住んでいる人」という捉え方をしているような気がしてなりませんでした。
ここに、僕は違和感を覚えたのです。
この捉え方には、国外に在住している日本人への配慮が足りないように思われるのです。
思うのですが、「日本人」について考える上で、もはや島国「日本」の枠組み内だけで考えようとすることに、限界がきているのではないでしょうか。
近年、世界全体のグローバル化が急速に進んでいます。最大の要因はネットワークの発達です。今から10年前の僕らにとって、LINEやFacebookといったSNSで海外の友達に即座に連絡をとれるようなった今なんてにわかには信じ難いでしょう。
そのグローバルの動きは日本も例外ではありません。
グローバリゼーションの波に乗って、日本から離れ、海外に駐在・在住する日本人が増えたのです。
これこそ、「日本」という枠組みだけで「日本人」は捉えるべきではないと言った理由です。
それを超えた、もっと広い枠組みで「日本人」を見ていかないといけない、そういう時代に既に突入していると思います。
そういう視点に立った場合、当然国外の日本人の安全についても考えるのが普通です。
今回採決された安保法案について。
(「戦争法案」とテレビでよく報道されていますが、「イスラム国」同様、これは注意すべき表現だと思います。「その法案が通れば、戦争が行われてしまう」、そうしたレッテルを国民が貼る可能性を増幅させかねないものです。)
何故、阿倍政権はこの法案を通したかったのか。
理由の1つに「国外の日本人救出」があります。
つまり、今まで憲法の解釈では不可能だった「後方支援」(「これが軍事行為か否か」という論点についてはここでは触れないでおきます)を可能にすることで、自衛隊が国外の日本人の救助活動を、よりとれるようになるのです。
他にも理由は様々あり、それに対する賛成・反対意見も多様です。
そして少なくともこの理由に関しては、僕は「日本人」を世界の枠組みで捉えている点で、妥当だと思います。
別に「日本人を守れ」という声に対して、利己的だとか独善的だとか言いたいわけではありません。
ただ、「日本人を守れ」と言うのであれば、日本国内だけでなく、国外の日本人に目を向けるのは当然ではないでしょうか。
残念ながら、この視点が欠けているように思われるのです。
まだ言い足りなさはありますが、長々となりそうなのでこの辺で。
ですが、もう1つだけ。
「説明責任がなされてない」とメデイアは度々報道しています。
しかし、それは「ブーメラン」ではないでしょうか。
これは僕の見識不足もあるのでしょうが、今まで僕が、この安保法案に関する報道を見てきた中で、「国外の日本人」に対して行ったインタビューというものを見ていません。
日本に住む、日本人へのインタビューは毎日のように見ます。
いってしまえば、食傷気味なくらいです。
「国外の日本人」は、一体今回の法案についてどのように捉えているのか。
メデイアは、彼らの声を聞くべきであり、そしてそれを伝える義務があります。
何故なら彼らは日本人であり、今回の争点は「日本人の命」なんですから。
そうした「説明責任」が十分なされていないのが、今のメディア報道だと考えています。
もしかしたら、これは1つの転換点になるのではないかと考えています。
「パラダイム・シフト」なんて言いますが、要するに、日本人が自身の「思考の枠組み」を変革すべき段階にきており、厳密に言うならば、枠組みのグローバル化=「拡大」が求められているのではないでしょうか。
あまり政治の発言は控えたいところですが、違和感をより明確にしようと思ってつらつら書きました。
次はオモローなこと書こうと思います!!
さいならっきょ。