「仮決断」という選択
こんにちわわ。
昨日、大学の先生と2人で飲む機会がありました。
その先生とは、大学1回生の頃に知り合い、2回生の今でも関係が続いています。
最初はお互いの近況報告をし合い、その後はそれぞれ思っていること・考えていることについて話をしました。
先生の話の中で、特に印象に残った内容があります。
それは、「仮決断」という考え方です。
これは、僕が将来就く職業について話をしていたときに、先生の口から出た言葉です。
「将来、どうするつもり?」という先生の質問に対して、僕は「書く仕事に就きたいなあとは考えています」と答えました。
その答えに対して、先生が述べたのは「仮決断」という考えです。
どういう意味か。
これはつまり、たとえ明確な目標が定まりきっていなくても、「とりあえず」決断を下して、1つに絞れ、ということだそうです。
僕の例で言えば、ただ漠然と「書く仕事」と決断を保留するのではなく、その中でも「新聞記者」「雑誌編集者」「コピーライター」と、1つに絞るという決断をしろ、ということです。
何故か。
1つは、一旦決断して、選択した対象
に向かって取り組んでいくことで、対象に深く入り込むことができるからです。
「仮に」僕が将来の職業を「新聞記者」に定めたとします。そして、どうにかツテで新聞記者の方とお話する機会を得たとします。
恐らく、「書く仕事」という漠然としたビジョンを抱くのに留まらず、「新聞記者」という決断をした僕に対しては、相手は「新聞記者」という職業について込み入った話をしてくれるでしょう。
そしてもう1つは、対象に深く入り込むことで、自分にとってその決断が合っていたのかそうでないのかが分かり、次のステップを踏むことができるからです。
つまり、あくまでも「仮」決断なので、途中でおかしいと思ったら、また新たに決断し直すことができるのです。
僕が新聞記者の方と話をする中で、「自分には合ってないかな」と思ったり、或は「君には向いてないよ」と言われたとします。
その場合、それでも新聞記者を目指すのもありですが、同時に 「じゃあコピーライター目指すかあ」というように、決断し直すことも可能である、ということです。
この考えは、僕が「大学生」というモラトリアム期間だからこそ大切にすべきものだと先生はおっしゃっていました。
「モラトリアム」という言葉は社会学者のエリクソンが提唱したものです。
「執行猶予期間」と訳されるように、「モラトリアム」という言葉に対して、何も決断せず、ふわふわ漂っているイメージを抱いている人が多いのではないでしょうか。
僕も今までそのような捉え方をしていました。
しかし、エリクソンの言う「モラトリアム」とはつまり、決断を免除されている期間ではなく、むしろ「仮決断」を絶えずし続ける期間を意味しているのだ、と先生はおっしゃっていました。
これは大きな違いだと、僕は驚きました。
と同時に、この考えは「取り返しがきく」ということを前提としているのに気づきました。
大学生という、失敗しても取り返しがきく期間だからこそ、「仮決断」を繰り返して軌道修正をする、という選択をとれるのではないでしょうか。
そしてその軌道修正の末、最終的に1つの「決断」ができればよいのではないでしょうか。
先生は以前「大学生からは、塑像型の自己形成をするべき」と僕におっしゃいました。
塑像は、一本の木をそこから「削る」ことで1つの像となったものです。
要するに、「何ができるか」ではなく、「何ができないか」 で自己形成を図れ、ということです。
今回聞いた「仮決断」の考えは、この「塑像型のキャリアデザイン」と結びつけられると思いました。
つまり、自分は「何ができないのか」を把握するために、私たちは「仮決断」をしていく必要があるということです。
「仮決断」を通して「自分を削る」、そして軌道修正をしていく中で最後まで残った要素こそ、自分の核と言えるのではないでしょうか。
優柔不断な僕ですが、この言葉を頭の片隅に置いて、まずは残り一ヶ月弱の夏休みを過ごそうと思いました。
では、さいならっきょ〜