文学部生・したろうのなかみ

頭の中だけはここで整理整頓

僕らは「死にやしない」

去年の年末頃から、よくラップを聴くようになりました

 

 

きっかけは「KOHH」というラッパーとの出会いです

 

 

matome.naver.jp

 

 

 

この人のラップの特徴を一言で表すと「ガチ」です

 

 

 

キレイゴトを全て削り落として、本音だけで言葉を紡ぎだしている

 

 

そんな印象を彼のラップから抱きます

 

 

 

彼の楽曲「Living Legend」から歌詞を一部抜粋してみます

 

 

www.youtube.com

 

 

I wanna be a living legend 生きているうちに 死ぬ前にはrich / 死んでる人より 生きてる方がいい / 生きてる伝説 死んだら意味ない

 

 

 

 

 

とにかく「生」に執着する彼の姿勢が剥き出しになった数々の表現

 

 

 

「現世利益」という一貫した主張でひたすら韻を踏み続けるスタイル

 

 

 

それまで僕が好んで聴いていたラップは、どちらかといえば「上手い」ラップでした

 

 

つまり、「どれだけ言葉巧みに韻を踏めるか」を基準にして聴く/聴かないを判断していました

 

 

 

そんな僕にとって、KOHHのラップは衝撃的で、かつ刺激的でもあったんです

 

 

 

 

生きてる伝説 死んだら意味ない」ってよく言いきるな〜と思いますけど笑

 

 

 

そんな彼のラップの中で、特に印象に残っている表現がこちらです

 

 

 

死にやしない」の歌詞より一部抜粋(動画ありませんでした、、、、)

 

 

諦めたら生きてるうちに死ぬ / 死ぬまで生きれば絶対死にやしない / 生きながら死んでるのが本当の死体

 

 

 

死ぬまで生きれば絶対死にやしない」ってすごい独特な表現ですよね

 

 

 

彼は「生」と「死」に対して、自分なりの明確な定義付けをしています

 

 

 

恐らく、彼にとっての「生」と「死」は

 

 

生=とにかく邁進し続け、その結果他者に影響を与えること

 

 

死=道半ばで諦めて、妥協してしまうこと

 

 

なのかなと思います

 

 

 

彼が「生きること」に自分なりの哲学を持ち、そしてそれに拘っていることがここからも伝わってきます

 

 

 

 

皆さんは「人間は2度死ぬ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか

 

 

 

1度目は、僕らが普段使用している意味での「死」です

 

 

 

この死が「物理的な死」だとしたら、2度目の死は「精神的な死」です

 

 

つまり

 

死んだ人のことを周囲の人が忘れてしまった瞬間、その人は2度目の死を迎える

 

ということです

 

 

 

 

KOHHは「死にやしない」の中で、「ジョン・レノン」や「尾崎豊」といった、人々に多大な影響を与えたアーティストの名前を挙げています

 

 

 

彼らは既に死んでいますが、未だに人々に影響を与え続けている存在です

 

 

 

 

つまり、肉体は滅びましたが、ジョンレノンや尾崎豊は、今でも人々の心の中で生き続けている、ということです

 

 

 

(曲中でKOHHは「身体よりも心の寿命は長い」とも言っています)

 

 

 

 

人は2度死ぬ」という言葉を彼は

 

 

死ぬまで生きれば絶対死にやしない」と表現したんだと思います

 

 

 

 

 

この世に存在するうちにどれだけ他者に影響を与えられたかが、第2の人生の寿命を決める

 

ということでしょうか

 

 

ゴッホとかはどうなんだって話ですが、、、)

 

 

 

うーん、果たして僕は第2の人生を何年生きられるのか、、、、笑

 

 

 

まぁ、「良い影響」を与えたいですよね

 

(何をもって「良い」とするのかも非常にムズカシイですが、、、)

 

 

 

 

大学生活も折り返しですし、自分の選択肢をどんどん絞っていく段階にきていると感じています

 

 

 

 

とりあえず

 

「何をしたら自分は1番他人に良い影響を与えられるのか」

 

 

これを軸にして今後の進路を取捨選択していこうかと思います

 

 

とりあえずは

 

 

 

因みにKOHHは

 

 

とりあえず もっと増やしたい 銀行口座の0」らしいです笑

 

 

 

 

是非KOHHをチェキラー

 

「幸せ」はつかめない

こんにちはー

 

テスト期間まっただ中ですが、何故か僕は自宅でDJ KAORI流してハイなトランス状態なっております、、、息抜きだから、、、、

 

 

(ヘビロテ、、、↓)

 

DJ KAORI'S JMIX VI

DJ KAORI'S JMIX VI

 

 

 

 

ちなむと、周囲からは「ディージェイ・カオリ」と呼ばれることが多いけれど、本人は自分のことを

ディージェイ・"ケアリィ"」と呼ぶらしいです(本質情報)(ソースはwiki

 

 

 

 

叶姉妹が「ファッション姉妹」だと知ったときくらいの驚きでした!

 

 

 

 

 

EDMガンガン流れている空間で机にじっと向かうってのも慣れない作業ですが、今回は割とマジメなこと書くつもりです〜笑

 

 

 

やや挑発的なタイトルにしたような気もしますが、言いたいことを端的に表した結果こうなりました

 

 

誰しも「幸せ」についてあれこれ思いを巡らせたことは多かれ少なかれあるでしょう

 

 

 

皆どんな感じで思うんでしょうね

 

 

 

どストレートに「幸せになりたい」ですかね

 

 

、、なんか固すぎるな

 

 

 

「幸せになりたいなぁ」

 

 

、、、加山雄三が頭に浮かんできました

 

 

 

 

うーん、中々イメージわかないですね、、、

 

 

 

そもそも「幸せ」ってどういうことなんでしょうか

 

 

 

 

前提としておさえておきたいことがあります(というかこれが結論)

 

 

 

「幸せ」って「イメージ」であって実際にこの世に存在する「モノ」ではないですよね

 

 

 

これはもしかしたら皆さんからしたらアタリマエのことなのかもしれません

 

 

 

が、僕は結構最近まで「幸せ」それ自体を何か「モノ」として捉えようとしていた気がします

 

 

なんか「頑張ればゲットできるようなもの」くらいに思っていました笑

("何"を頑張ればよいかはよく分かりませんでした)

 

 

 

 

そんな僕が「幸せ」について考えを改めるきっかけとなったのは、バイト先の先輩との会話でした

 

 

 

 

バイトからの帰り道、先輩の就活の話を聴いている流れでふと投げかけられました

 

 

 

「したろう君、将来どうしたいの?」

 

 

 

「えーそうですねー、、、」と、思わぬ質問に焦りに焦った末、僕が答えたのは

 

 

 

「幸せになりたいですね」

 

 

 

言った瞬間「あいたたたーw」と赤面も赤面でした

 

 

 

でも何で恥ずかしくなったのか、よく理解しきれないうちに先輩は

 

 

 

「したろう君にとって『幸せ』って何?」と真剣な顔で再び尋ねてきました

 

 

 

 

「ウィケメンだぁ、、、、」とホレボレするのと同時に

 

 

 

 

「『幸せ』って"何"?」という部分にハッとさせられました

 

 

「あぁそうか、そういうことか」となるふむなるふむうなずいておりました

(どういうことだ)

 

 

 

 

要するに

 

 

 

「幸せ」ってモノではなく、概念なのだから「幸せをつかむ」ことはできないということを先輩は僕に教えてくれました

 

 

そりゃそうですよね

 

 

 

僕だって「"1"が欲しい」って誰かにせがまれたら「何言ってんだコイツ」ってなりますよ恐らく笑

 

( 「記号」って、「幸せ」同様モノではなくて概念ですからね)

 

 

 

 

でも、僕らは「幸せになりたい」んですよね

 

 

 

ではどうすればいいか

 

 

 

自分にとって"何"が「幸せ」なのか、今生きている現実から見いだしていくしかない

んですよね

 

 

 

つまり、「幸せって"何"?」っていう具体的な問いかけを行うことなくして、僕らは「幸せになる」ことはできないんです

 

 

 

抽象的である概念=イメージはこの世に存在しないからです

 

 

 

 

「イケメン」「温かい家庭」「やりがいのある仕事」、、、、

 

 

 

完全に頭の中にしか存在しないのですから、言ってしまえばこれらは全て「妄想」です

 

 

 

でも僕らが追い求め、実際にこの世で獲得できるものは具体的なものだけです

 

 

 

「イケメン」を追い求めることはできませんが、「松潤」を追っかけることはできますよね?   (追いつくとは言っていません、、、)

 

 

 

 

そうやって具体的なものに「幸せ」を落とし込もうとすることで、「妄想」ではなく現実と向き合った「思考」が働き始めるんだと思います

 

 

長々なりましたが、言いたかったことは

 

 

「『幸せ』になりたいんだったら、『幸せ』についてもう少し考えんかい!!」

 

 

 

ってことです笑

 

 

 

 

 

やっぱり頭を使わないとなぁと自戒の念に駆られています

 

 

 

 

 

 

 

 

あぁ、幸せになりたーい笑

 

なんとなく、「モヤモヤ」

こんちは。

 

約三週間ぶりの投稿。

 

演習授業での報告発表の準備がてこずっていたので、暫く放置していた。

 

一昨日本番があり、無事死亡。

 

 

反省点を一つ一つあげてたらキリがないので、一つだけ。

 

ゴール設定の重要性は実感した。

 

今回の発表にあたって、結構自分なりに時間かけて準備してきたつもりだった。

 

けど、実際は、立てたテーマに批判を受けるどころか、その前提の情報収集の甘さを指摘されるような始末。

 

 

要するに何が言いたいかというと、「頑張りどころ」が全然的外れだったということ。

 

 

何故か。最終目標を掲げて、それに向けてどういった取り組みをしていくかという、当たり前といえば当たり前のことを怠ったから。

 

まずはとにかくゴール達成を最優先にする。その点を踏まえると、「結果が全て」って言説はそこまで暴論に思えてこない。

 

 

 

 

 

 

最近特に思うんだが、自分は「基礎基本」を本当におろそかにする傾向がある。

 

今回の課題への取り組みに限らず、勉強、スポーツ、バイト等々、、、。

 

「こんぐらいでいいかなー」ってつい思ってしまう。

 

でも実際は、8割程度押さえたくらいじゃ基礎を「固めた」とは言えないんだよね。

 

 

 

「マニュアル人間」って、やたら否定的な文脈でよく見るけど、まずそもそもマニュアルすらこなせない人が臨機応変な対応できるのかという話。

 

 

まぁ自分は基本ができていると思っているからこそ、こういった批判をするんだろけど。

 

 

 

・・・というわけで、なかなかボロボロな報告だったわけです。

 

 

しかし、終わったことで大分時間と心に余裕が生まれたので、最近思ったことを整理しよかーと思った次第。

 

 

最近、「構造」についてちょっと考えてた。もっというなら「思考の枠組み」かな。

(全然具体的じゃないのはあしからず。)

 

考えるようになったきっかけは、、、

 

「これ!」といえることは浮かばないんだけど、いろんなコミュニティと関わっていくうちに、徐々に言い知れぬ違和感が芽生えてきて、それが開花したって感じ。

 

その違和感を言語化するとこうかな。

「その行動って、本当に自分の意志に基づいたものなのか?」

 

何が言いたいかというと、自分の意志で行動しているつもりでも、その行動、なんなら意志って、実は自分の属している社会集団によってある程度規定されてるんじゃないかなってこと。

 

コミュニティって、同じ考えや価値観もった人で構成されているわけではないはず。

 

でも、その社会での通念というか、共有された偏った考え方は存在するんじゃないかなとは思う。

 

具体的に考えてみる。

 

例えば、僕は現在、大学で文学部に在籍しているけど、同期、先輩話と就職の話をしていると、よく「公務員」という言葉を聞く。

 

実際、僕の学部を卒業した方々の就職先を見てみると、他学部と比べて公務員が多い。それに続いてインフラ系、教員といった感じだ。

 

 

学部の気風、それは当然関係していると思う。市場からかなり離れたところで学問しているところだし。

 

 

文学部disへのカウンターとして、「役に立つものだけが学問ではない」っていう、もはやテンプレ化した言い分をよく聞くけど、それって自分たちが取り組んでいる学問が市場原理とは関係ないことを認めているってことだしね。

 

こうした背景があって、公務員や教員が多いっていうのは、まあわからんでもない。

 

でもここで違和感が生じる。

「文学部での学びは市場から離れている→民間ではなく、役所勤め」って、よく言えば一貫性あるけど、これって本当に文学部コミュニティによって規定された考え方だよね。

 

「朱に交われば赤くなる」ってことわざがあるけど、「コミュニティにどっぷり浸かるうちに、自分の価値観や考え方がそのコミュニティでよしとされるものにすり寄っていく」って意味だと解釈している。

 

 

「元々赤かったのか、それとも赤に染められのか」

この違いは重要なんじゃないかと思う。

 

元々文学部の気風とマッチしていた人もいるだろいうし、そうでない人もいるだろう。

 

 

僕が言いたいのは、「他人の敷いたレールには乗りたくねえ!」ってことじゃない。あるコミュニティの価値観が、自分が持つそれと似ているなら、わざわざ脱線する必要なんてないし。

 

だけど、そのレールに乗るにせよ、外れるにせよ、一度立ち止まって考える必要がある。

 

こういうこと考えるようになったのも、大学入学をきっかけに長年住んでいた鹿児島を離れて、地元での生活を相対的に捉えられるようになったからかな。


じゃあどうすれば構造に呑み込まれずにいられるか。



「違和感」に敏感であることが肝要だと思う。


誰かの言動を受けて、全然納得いかないわけではないが、なんとなく「うーん」と思うこと、まあまああるはず。


その心の動きを見逃さない。何で「うーん」と思ったかをとことん追求してみる。


論理的におかしいから違和感抱いたのか、それとも価値観が合わないからか、原因を突き止める。


それは自分と他者,コミュニティーの「考え・価値観を」しっかりと”棲み分ける”ことに繋がる。


「あー、あの人はそう考えるわけね。でもなーんかモヤモヤ。なんでモヤモヤするか考えよか」


「モヤモヤ」を「モヤモヤ」として片付けない。そういうものだと割り切らない。


「違和感を大事に」


自分の中の「モヤモヤ」に敏感であるように、もっと日頃からあらゆる方向にアンテナはっておかんとなぁと思う次第である。



 

 

 

だいばーしてぃ

今週は集中講義といって、他大学から先生を招聘して、講義をしてもらう期間。

 

前期もこうした期間が設けらており、めんどうだったので僕は受講しなかった。

 

「出前授業」って響きに何となく惹かれはするのだが、どうしても惰性が知的好奇心を上回ってしまう。

 

 

そういうわけで今回も受講はせず。

 

期間中は通常講義は休講になるので、かなりまとまった時間が生まれる。

 

 

なにしよかなー、映画でも見るかー、いや音楽漁りまくるかー、と先週末にあれこれ考えていた(頭に浮かぶのが全てインドア系だったと今書いてて気づいた、、、)。

 

 

で、結局何してるかというと、「読書」。

 

 

二回生入ってから意識して本読むようにはしていたけど、最近は特にそれが顕著になっている。

 

これといったきっかけは浮かばないんだけれど、1つ言えるとしたら「教養を深めたいから」

 

 

この「教養」が具体的に何を意味するのか、正直よくわからない。まずそもそも「教養を深めたい」という言葉もイマイチ捉えづらい印象を受ける。

 

 

なんというか、それは恐らく測定できるものじゃないから。

 

 

「この数値まで到達したら、あなたは相当教養を深めたと言えるでしょう」といった、教養の到達度を示す「基準」なんてないから。

 

 

じゃあなんでそんな捉えどころのないものを僕は追いかけているのか。

 

 

直球で申し上げると「頭が良くなりたいから」。

 

 

なんでこう思うかというと、これまた単純で「これまであまり頭を使ってこなかった」という自覚があり、「だから頭が悪い」という結論に至ったから。それをどうにか払拭したいから。

 

つまり、これまでの人生で全然頭を使ってこなかったことへの「後悔」が、僕の読書活動をするきっかけ。

 

 

 

自分の人生を振り返ったときに、何かしら「後悔」の念にかられるんだけど、人生における具体的なケースに注目するか、それまで過ごしてきた「人生」を一括りにして注目するかで「後悔」の質も変わるんじゃないかなあと思う。

 

 

 

まず過去の具体的なケースへの注目について説明。

 

 

例えば部活の最後の大会、自分のミスでチームが負けたとき。「あのとき、ああしてればなあ」と自責の念にかられるはず。

 

 

こうした「後悔」っていうのは、ある出来事に際してとった自分の振る舞いに対して向けられるものである。

 

 

 

 

対して、こうした具体的ケースの総体である「人生」を1つのものとして捉えるときもまた「後悔」っていうのは生まれる。

 

 

 

その「後悔」は、ある出来事における具体的な行為にではなく、そうした行為を今までとってきた自分自身の「性質」に向けられるものなんじゃないかな。

 

 

 

 

 

 

要するに、過去のエピソード1つ1つに注目するのか、それともそうした出来事をひっくるめた「人生」という大きなまとまりに注目するかで「後悔」の向く先が自分の「行為」と「性質」それぞれに分かれるんじゃないかなってこと。

 

 

 

そろそろさっきの話に戻りたいと思う。

 

 

 

僕が自分の人生を真剣に振り返ったのは、浪人を経て大学に合格した直後だ。

 

 

 

なんでそのタイミングだったかはイマイチ分からないが、大学合格という1つの「成功」によって、それまでの人生が幾分か「上方修正」されるのを本能的にストップさせたかったんじゃないかな。

 

 

あれこれ考えた結果

 

 

「自分は今までの人生を通して、自力で物事を考えない、頭を使わない人間だった」ということがはっきり分かった。

 

 

 

一応は頭使って大学に合格したという自負が少なからずあった分、正直結構こたえた。

 

 

すごく情けなかったし、悔しかった。

 

どうにかしてこの思いを晴らしたい。

 

それを一心に大学に入学した。

 

 

だから大学入ってから今まで、常に念頭に置いてきたのは「教養」であり「学問」であり「勉学」だったんだと思う。

 

 

この僕のスタンスに対して「『頭良い』って、そういうのを指すんじゃないと思う。」といったような意見は当然起こると思われる。

 

 

例えば、物事をどれだけ要領よく処理できるかをもって「頭が良い/悪い」と考える人もいるだろう。

 

 

しかし、僕にとっての「頭が良い/悪い」の第一義は、上に述べたような「勉学」を軸に据えたものである。

 

 

具体的には「難解な文章、思想をどれだけ自分の中に落とし込めるか」などが自分にとっての「頭の良し/悪し」の判断材料だ、ということだ。

 

 

「頭の良し/悪し」に関する前者の主張、後者の僕の主張、どちらが「正しい」なんてことはないはずだ。

 

 

それこそ「頭の良し/悪し」っていうのは多様な捉え方があるだろうし、だからこそ「正解」を作ることで意味を一義にしてはならないと思う。

 

 

 

「へ〜、あの人はそう思っているのか〜。ま、僕は違うけどね」くらいのノリが大事なんじゃないかな、「価値観」に対するスタンスって。

 

 

いちいち「いやそれはおかしい!」って目くじら立てるんじゃなくて、放っておく。違和感抱くような他人の価値観は。

 

 

 

大学入ってから「多様性」って言葉チラチラきくけど、別に「相手の価値観を受け入れる懐=多様性」ではないと思う。

 

 

あまりにも理想すぎて、全然現実味がない。

 

 

恐らく前提がおかしいんだと思う。

 

 

相手の価値観をどうにかして受け入れることが多様性だと考える人は、「人はわかりあえる」っていう前提があるはず。

 

 

でも僕は「人はわかりあえないもの」という前提にたっているので、「わかりあえないやつは放っておく」というスタンスが多様性を示すという考えに至る。

 

 

 

まあ、だからといって「他人の価値観を受け入れる=多様性」だという考えを抱く人の価値観を否定するつもりもないし、受け入れるつもりもない。

 

 

 

ただ、そっとしておくだけ。

 

 

 

相変わらず話しが転々としてしまった、、。

 

 

ほんで、「頭がいい」とは「難解な文章や思想を理解できること」だと思い、そこから読書するようになったんだけど

 

 

少し気がかりなのは、最近においてはそうした側面に加えて、「何かをしないため」という理由で読書をしている側面もあるよなあということ。

 

 

 

要するに「読書”さえ”していればよい」という、半ば「読書原理主義」に陥りかけているということ。

 

 

 

これはこれで思考停止している気がするし、どうにかせんとなあと思う。

 

 

 

まぁ、こんなことにあれこれ考えを巡らせられる時間と余裕がある大学生活は神ってことで、もう寝ようかな(笑)。

 

 

 

明日は久々に街にでようかな。

 

 

 

ベーシックインカムで「一億人総扶助」?

「寒い」と言って「それな」と答えてくれる人のいる温かさ。

 

 

 

 

 

 

・・・サムイ(ダブルミーニング)。

 

 

 

 

 

この時期になると、「夏の暑さと冬の寒さだったらどっちがマシ?」って話をちょくちょく周りの人とするけど、僕は断然ナツです。

 

 

 

 

なんといっても朝がね〜〜〜。冬は辛いですぅ、、、。

 

 

 

起きる→オフトゥンあったか→出る→「シャムッ!」→オフトゥン。

 

 

 

どうしてもこの無限ループに陥ってしまいます。

 

 

 

 

夏はむしろ朝に関してはありがたい。

 

 

 

起きる→「アチィイイ」→「寝汗〜」→シャワー。

 

 

この黄金サイクルが成立するから。

 

 

 

 

あとは、暑いのは我慢が効くけど、寒いのはどうしても限界がありますね。

 

 

小学校のとき、冬場も制服の短パンで過ごしていたのが本当に信じられない。

 

 

あれは自分の身体の限界を知らない子供だからこそなせる技(?)だなぁと思います。

 

 

どんだけ走り回ってヘトヘトになっても、一晩寝たらまた遊びまくってましたし。

 

 

大学生なって、「身体の限界」を意識するようになってから、あまりムリしないようになりましたね。

 

今高校の部活に戻ったら,割と本当に身体のどこかが爆発する気がします(笑)。

 

 

これが「大人になった」ということなんでしょうか(遠い目)

 

 

 

逆に言えば、幼児化、つまり無理矢理にでも「ガキンチョ」モードに気持ちをもっていったら、ある程度のムリはできそうだなぁとも思えますけど。

 

まぁ「ある程度のムリ」が「生理的にムリ」なので、しませんけど(笑)。

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

今日は、ちょっと面白いアイデアを知ったので、それについて書こうかなーと思います。

 

 

 

ベーシックインカム

 

 

 

 

ご存知でしょうか。恥ずかしながら、僕は名前自体はチラッと聞いた覚えがある程度で、どういったものなのか知りませんでした。

 

 

 

 

記事をいろいろ読みましたが、どうやら2010年頃から話題に上がり始めたようです。

 

 

 

以下、はてなキーワードより引用。

 

ベーシック・インカムとは、一定額の所得を、すべての人々に個人ベースで無条件に――資力調査も就労条件も課さずに――交付しようという構想である。

これは最低限所得保障の一種であるが、これまでの所得保障とは三つの点で大きく異なる。

  1. 世帯というよりむしろ個人に対して支払われる。
  2. ほかにどのような所得があるかということとは無関係に支払われる。
  3. これまで就いてきた仕事のパフォーマンスや、職業安定所などで提示される仕事への諾否とは無関係に支払われる。

 

 

要するに

「働いている/働いていないに関わらず、無条件で全国民に対して一定額の給付金を与える制度」ということです!

 

Basic Income」の頭文字をとって「BI」と表記されることが多いです。(なんでこれ以降BIとします)

 

このBI導入の目的は何か。

 

簡潔に言うと、「不安定社会における国民の安定」のためです。

 

 

就職できるかどうか分からない。或はいつ仕事を失うか分からない。そんな不安定な時代に突入しています。

 

 

勿論、この状況を打破するための政策を政府が打ち出す必要は言うまでもありません。

 

 

しかし、「未来への取り組み」と同時に、「現実の対応」も並行して行われるべきでしょう。

 

 

 

今、この瞬間にも、職がなく困っている人々がいるのですから、彼らを等閑視して未来にばかり目を向けるのは筋違いというわけです。

 

 

全ての国民が生活するための基礎金(=BI)が問題解決の一助となるということです。

 

 

BIはよく「生活保護」と混同されるようです。「政府が国民にお金を与える」という大枠は同じですしね。

 

 

生活保護」と違う点は、BIは所得の多寡を一切考慮しないという点です。

 

 

 

生活保護」はある一定の所得ラインに満たない所得の人に対して適用される制度です。

 

 

対して、BIはそもそもそのラインを設定せず、裕福な方にも、貧しい方にも同じ額の給付金を与える制度です。

 

 

 

ではその財源はどうするか。

 

 

所得税」です。

 

 

所得税生活保護同様、ある一定の所得ラインに基づきます。払うべき人とそうでない人の線引きをするのです。

 

 

また日本の場合「累進課税制度」をとっているので、所得の多いひとほど、より多額の所得税を支払う義務があります。

 

 

 

 

そういえば先日、巨人の杉内投手の契約更改がありましたね。

 

 

 

「自己申告で4億5千万減の5千万でサイン」という見出し、何を言っているのかサッパリでした(笑)。

 

 

 

「税金支払えるのかよ〜」って、率直に思いましたが、まぁそれまでの実績を踏まえると、ある程度蓄えがあるのでしょう。

 

 

 

 

今はまだペーペーの学生ですが、社会人に近づけば近づく程、ウン千万、ウン億といった話がはびこる世界がいかにワンダーワールドなのか分かりますね(笑)。

 

 

 

 

閑話休題。(←最近これ使っとけばいいと思っています 笑)

 

 

こうした所得税をBIの財源にするわけです。

 

 

仮にBIを8万円として、それを「一億総活躍」と称された国民1人1人に与えるわけですから、単純計算しても8兆円。はいエグい。

 

 

この財源となりうるために、所得税は必然的にアップします。

 

 

 

 

 

BIのメリットとしては、「低所得者層の労働意欲増進」だと考えられています。

 

 

 

生活保護」の場合、働いても生活扶助以下程度しか稼げないと、これ以上働いても無駄だと感じ、労働を放棄して生活保護を受けようとする方が増えます。

 

 

 

そうすると生活扶助額とそれに伴う社会的損失は大きくなります。

 

 

対して、BIを導入すると、ベースがあるわけですから、そこから少し働けばまず「貧困」状態からは抜け出せます。

 

 

 

ただそれだけだと、月末に親へ支援金を請う大学生のようなカツカツ状態にもなりかねません。(誰のことでしょうか、、、)

 

 

 

 

なので、「余剰」を少しでも生み出そうと、働くわけですね。この論理をもって低所得者はより働くようになるだとか。

 

 

 

 

 

僕はこのBI制度から「もうバリバリ働かなくてええんやで」っていうメッセージが感じられるので、少しこのメリットは違和感を覚えるのですが(笑)。

 

 

 

まぁ僕みたいにそんなに働かなくなる人が増えるかは分かりませんが、恐らく多くの人々の「労働」に対する価値観を揺らす制度となりうるんじゃないかなと思います。

 

 

 

 

「自分で自分を養わなければならない!」「働いて、自立しなければならない!」っていう労働における「べき論」とはまた違う視点を僕たちに与えうる制度、それが

 

 

 

Basic Income”なのではないでしょうか。(改行と””に意味ないです)

 

 

 

ねむーい、ねよ。

 

 

 

さいならっきょ。

羨ましい、他人のスペック(韻が踏めそう)

こんにちはー。

 

 

今日は、「他人のスペックに対する羨望」について思ったことを書こうかと思います。

 

「スペック」 

 

人の身体的特徴、趣味、学歴、仕事などの階級を表す言葉。

 

 

はてなダイアリーから引用しました。

 

 

元々は「パソコンの仕様(どんなパーツで構成されているのか)」を指す用語だったらしいですね。

 

 

それがネットが普及するにつれ、転じて人の能力・地位などの程度も意味するようになったとか。

 

 

日常生活でも耳にすることあるし、ある程度実生活でも市民権を得つつあるんじゃないでしょうか。

 

 

 

 

具体的には「あいつスペック高いよなー」って、第三者のことについて話している文脈でよく聞くかな〜。

 

 

 

不思議なのは、「あいつはスペック低い」って、disりの側面でこの言葉を用いてる人を全然みかけないこと。

 

 

スペックという言葉自体に、ある程度価値を含ませた上で使ってるのかな〜とか思ったり。

 

 

 

 

 

閑話休題

 

 

 

 

 

んで、よく他人をポジるときに使われる「スペック」ですが、そもそも何で他人のスペックを羨むのだろうかという疑問が湧きました。

 

 

 

 

特に「イケメン・美女」っていう、「美」のスペックに対する羨望。

 

 

テレビで数多の造形美を目の当たりにすると、ほんのたまにだけど、「嗚呼、、」と思うことがあります(笑)。

 

 

なら自分もイケメンになりたいかというと、そういうわけではないんですよね。そういうわけでは。

 

 

安易な一般化は避けたいところですが、イケメン・美女に憧れを持つ人って、羨むことこそすれ、別にそのスペックを求めているようには見えないんですよね。

 

 

 

僕は、「羨望」って、「自分もそれを欲しい!」っていう欲望から生まれる行為だと思うんです。

 

 

 

つまり、、イケメン・美女を羨む人達は、彼ら彼女が持つ「美のスペック」それ自体に

羨望の眼差しを向けているわけではないんじゃないでしょうか。

 

 

 

 

 

じゃあ、一体何を羨んでいるのか。

 

 

 

パッと思いついたことは、そのスペックによってもたらされる富と名声、これを羨んでるんじゃないかなあと。

 

 

 

まあそうだと思います。でもあまりにも単純すぎる。「富と名声」が目に見えるものだとしたら、目に見えないものに対しても羨望しているんじゃないか。

 

 

 

 

 

そんなこんな考えているうちに、1つ浮かんだことがありました。

 

 

 

 

「イケメンや美女って、イケメン・美女を羨むとかあんましないやろな」

 

 

 

 

めちゃめちゃ当たり前といえば当たり前ですが、ここからピンときました。

 

 

 

 

「あ、イケメン・美女はそれこそ「美のスペック」についてあれこれ考える手間が省けるんだし、だから皆羨むのか〜ふむふむ解決や〜腹減った〜」

 

 

 

 

自己満を補足。

 

 

 

要するに、「美のスペック」を持つ人は、それに対してあれこれ考える手間がだいぶ省ける。”無意識”でいられるんです。

 

 

 

人は、イケメン・美女のこうした「美のスペック」に対して無意識でいられるという、その精神的余裕を羨ましがるんじゃないかなあと思います。

 

 

 

「もう少し背が高ければなあ・・」「鼻筋が通ってないなあ・・」

 

 

 

このような、美のスペックに対する意識を持つ必要がないんです、イケメン・美女は。

 

 

 

 

チクショウめ!!!

 

 

 

 

 

 

でも、意識を「持たなくていい」ことに対して羨望するって、結構おもしろいなあと思いました。

 

 

 

 

「無意識を欲望する」って、少し不気味な文章ですわ、、。

 

 

 

今回はトピック絞って考えましたが、これをもう少し広げたらおもしろそう。

 

 

まあひとまずここら辺でお開き。

 

 

 

いくつかトピックはストックしているので、頭が冴えているときにどんどん投稿していきますね〜。

 

 

 

あ、あと余談ですが、適度な運動したら頭めちゃめちゃスッキリしてビビリました。

 

 

 

恐らくこの「適度な」という点が重要。

 

 

 

それこそさっき、30分程度軽くジョギングしたんですが、シャワー浴びるころには汗と一緒に頭のモヤモヤも洗い流されました!

 

 

その勢いのままに書いたのが今回の記事です!(記事がスッキリしているかどうかはおいといて)

 

 

 

暫くはこのルーティン試してみようかと思います。

 

 

 

 

ではでは、さいならっきょ〜

人生の分岐点〜バタフライエフェクト〜

2日前、久しぶりに映画を見ました。

 

作品名は「バタフライエフェクト」。

 

冒頭で、タイトルの由来について「カオス理論」が取り上げられていました。

こんな例えをしていて、すごく印象的でした。

 

「蝶(バタフライ)の羽ばたきによって、地球の裏側で竜巻が生じるかもしれない」

 

「カオス理論」とはすなわち、ほんの些細な出来事が大きな現象を引き起こしうることを唱えたものだということです。

何だかよくわからないですが「因果は巡り巡る」ってことでいいんですかね。そういうことにしておきましょう。

 

内容についてザッと説明Z!(ネタバレ注意です!)

 

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主人公・エヴァンは幼少期、度々記憶をなくす、記憶障害を起こしていた。

 

病院で検査を受けるも脳に異常はない。

 

医者は、記憶力向上のため、日記をつけることをすすめ、以後毎日欠かさず日記を書くようになる。

 

エヴァンは普段、四人グループで行動していて、そのうち唯一の女の子・ケイリーに慕情を抱いていた。

 

しかし13歳のとき、引っ越しすることになり、ケイリーと離ればなれに。

 

見送りにきたケイリーに対して、エヴァンはトラックの助手席から手書きのメッセージを見せた

 

「I will come back for you」

 

そこから六年経ち(ケイリーほったらしか!)、大学生になったエヴァンは心理学を専攻して記憶について研究していた。

 

あるとき、仲良くなって部屋に連れ込んでいた女の子が日記を見つける。

読むのをせがまれた主人公は渋々読んでみる。

 

すると、その読んでいた日記を書いた時にタイムスリップした。

 

やがて現実に戻ったエヴァンは、新たに得た記憶が正しいかどうか、かつての四人グループの旧友・トニーを訪ねる。

 

結果は◯。

 

さらにエヴァンは、記憶を補完させようと、6年ぶりにケイリーのもとを訪れる(自己中か!)

 

ケイリーはレストランでウエイターとしてこきつかわれており、あまり良い境遇とは言えない様子。

 

彼女の帰りを見計らって声をかけるエヴァン。驚くケイリー。そこから雑談を少ししていたが、エヴァンが昔の事件(ここの記憶をエヴァンは持っていない)について尋ねると、彼女の表情は一変。

 

何故過去のトラウマを掘り返すのか。そのためにわざわざ6年ぶりに会いに来たのか。本当に好きなら何故この六年間一言も連絡をくれなかったのか。

 

この6年間溜まりに溜まっていた鬱憤をぶつけるかのように罵声を浴びせるケイリー。閉口するエヴァン。そのまま分かれる。

 

翌日、受話器の伝言を確認。2つあり、1つは教授から。そしてもう1つはケイリーの兄(四人グループの一員)からのメッセージ。

 

内容は「ケイリーの自殺」

 

言葉を失うエヴァン。自責の念にかられる。

 

彼女の葬儀の日、親族が彼女の墓を囲むのを遠くから見つめるエヴァン。全員去ったあと、彼女の墓に花と手書きのメッセージを置く。

 

「I will come back for you」

 

これ以降、彼女を生き返らせるため、日記でタイムスリップして過去を変えようとエヴァンは奮闘する。

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

・・・・・・・はい(笑)くっそ長くなりました。

 

まあ要するにタイムスリップの話なんですよね。ただ、他の同系の映画と違うところは(とか偉そうに言ってるけど似たような映画「バックトゥザフューチャー」しか知りません、すいません!!!)、どの時代にもタイムスリップできるわけじゃないという点です。

 

まず、自分が生きてきた時間に限られます。その上、もう1つ条件があります。幼少期にエヴァンはしばしば記憶障害を起こしていました。

 

そうです、この記憶障害によって欠けた「空白の時間」に対してのみタイムスリップが可能なのです。よっくできてますね〜。

 

この「空白の時間」に戻って、記憶を補完し、その上で事実を少しいじくる。すると現実が大きく一変するわけです(これが”バタフライエフェクト”!)

 

 

この映画を見ているうちに、この「空白の時間」って、「人生の分岐点」だよなーと勝手に解釈しておりました。

 

 

人生の分岐点。

 

自分の人生を振り返ることはたまにあります。今回の映画を見てから「分岐点」を念頭において振り返ってみました。

 

そうすると、自分のなかで大きな分岐点は2つあるなあと感じました。

 

「引っ越し」と「進学」。

 

「引っ越し」に関しては、具体的には小1から小4までいた神戸を離れて、鹿児島に移ったことです。

 

方言、人口密度、住民の性格等々、あまりにも環境がガラリと変わりました。それもあってか、鹿児島に移ってからは、以前より外交的な性格になったような気がする。どんな因果によってか分かりませんが。

 

「進学」に関しては、浪人の末、関西の大学に行くようになったことです。

 

現役時は、九州の大学を志望して受験しましたが撃沈。

 

浪人時、そこまで深く志望校を考えたわけでもなく、「関西弁の女の子と話したい」「都会に住んでみたい」とかいう、何とも俗物的な理由をもって、関西に進もうと思いました。

 

 

前者に関しては、自分ではどうすることもできない出来事ですが、後者に関しては、完全に自分がとった選択肢です。

 

なので、より自分の人生の「分岐点」としてふさわしいのは「進学」かなあと、今書きながら思っております。

 

エヴァンはこうした「分岐点」に戻って違うルートを模索するわけですが、僕は過去に戻ってあれこれしたいとか思わないですね。

 

(「ノスタルジーに浸りたい」という理由ならまた別の話ですが、、)

 

エヴァンのタイムスリップへの衝動はどこからくるのか。「現実否定」でしょう。彼にとってケイリーの死は大きな出来事です。

 

「自分があのときああしていれば...」

 

彼女の死を招いたのは自分だという罪意識も相まって、彼は過去を変える決断を下すわけです。

 

今の僕には、彼みたいに現実を否定したくなるほど何かショッキングな出来事を抱えていたり、過去の自分の行動に対する後悔があるわけではありません。

 

後悔は、過去に対する視点から生じます。別にこれ自体を否定するつもりはありません。ですが、僕たちは過去を生きることができないのは事実です。

 

だからこそ、「後悔」の次には「反省」が必要なのかなと思います。

 

このステップを踏まないと、「現実否定」に陥るのではないでしょうか。

 

「過去」をみつめて後悔し、それを踏まえて「未来」に向けて反省する、それを繰り返しながら「現在」を生きていく。

 

こんなに上手くはいかないでしょうが。

 

まあ、もう1回戻れるものなら過去に戻ってみたいとは思いますけどね。特に現役・浪人時に受けたそれぞれの大学の受験日。

 

それでも過去を変えたいとは思わないでしょうね。それこそ些細な違いによって現実が180度変わるなんてこと、映画の世界だけで十分です(笑)。

 

オチが思い浮かびませんでしたが、面白い映画だったのであれこれ書こうと思った次第であります(笑)。

 

 

継続的に投稿したいので、次回以降はもう少し分量は少なめでいこうかなと思っております。

 

 

では、さいならっきょ