文学部生・したろうのなかみ

頭の中だけはここで整理整頓

よく噛んで食べましょう

こんちはー。

 

 

 

もう10月下旬。秋が深まりつつありんす。

 

 

 

、、、、といった感想をあまり抱かないことに今朝気づいた。

 

 

 

そもそも「秋」を感じるときはいつだろうか。

 

 

「読書の秋」「スポーツの秋」「食欲の秋」

 

 

 

秋という季節はどうやら僕らに能動的であるよう働きかけるみたい。

 

 

しかしこうしたテンプレをみても、「秋」がどんな季節なのかイマイチピンとこない。

 

 

これは僕の感受性の欠乏が問題なのかもしれないけど。

 

にしても夏や冬と比べて、「暑さ」だとか「寒さ」だとか、身体に訴えかける主張はしてこない印象を受ける。

 

 

1番身近に秋を感じるのは「紅葉」かな。今年は京都を巡ろうと考えているし、色彩という側面から秋を捉えることが多いかも。

 

 

 

なんにせよ、季節に敏感でありたい。そうするには「時間」と「余裕」が必要なんだけど。

 

 

 

 

 

 

昨日、大学の昼休み時、3限まで少し時間を持て余していたので、図書館で適当に雑誌を漁っていた。

 

 

 

 

雑誌パラパラ捲っているうちにふと思った。最近めっきり新書読まなくなったなーと。

 

 

 

 

前期までは「新書新書新書!!!」とバカの1つ覚えにひたすら新書を読んでいたんだけど、後期入ってからまだ1冊も読めてない。

 

 

単純にしんどいから(笑)。

 

 

自分にとって大事であることは前期までの読書経験から分かっているんだけど、どうしても体力がいるからなー。

 

 

 

そうした現状を踏まえると、夏期休暇という時間も余裕もあった時期に、ペースこそ遅けれ、継続的に本を読んでたのは正解だった。

 

 

 

 

 

本に限らず、音楽、芸術とか「文化」という枠にカテゴライズされているものに関しては、深く、ゆっくりと咀嚼して自分の中に取り入れんとなあと考えている。

 

 

 

 

でないと、ファーストフードを食べるように、即座に「うまい!」「まずい!」といった判断をする消費活動に陥りかねないし。まあそんなご時世ですしね。

 

 

 

 

少し話はそれるけど、その点ではTwitterでやたら流行ってる「コピーライティング」とか本当にファーストフードの王道突っ走ってるよね。いわゆる「bot系」。

 

 

 

4〜5行程度の良さげな文章を10秒足らずで読んで「ふぁぼ」「りついーと」

 

 

(なんかグドモの歌詞みたい。)

 

 

 

 

そうした文章って、本質論ぽい自己啓発文なんだけど、何が怖いって、「何かした気になる」んだよね。ああいうのを読むと。

 

 

 

 

節子、それ生産活動ちゃう、ただの消費活動や。

 

 

 

 

 

、、、あれこれ言ったけど、要はこれじゃダメだよなーということ。自戒を込めている。

 

 

 

 

閑話休題

 

 

 

 

じゃあどうすれば咀嚼できるかというと、端的にいうと「噛む時間」があればいい。噛む時間が長い程じっくり味わえる。そう、「時間」が必要。

 

 

 

さらにいえば、「余裕」もなければならない。いくら時間ばかりあっても、それを使いこなせるだけの精神衛生が整ってないといけない。

 

 

 

「時間」と「余裕」。この2つが重要じゃないかなと、最近漠然と思う。

 

 

 

 

 

だから、コンビニバイトも来月いっぱいで辞めることにした。

 

 

 

 

「Time is money」って金言があるけど、イコールではないよね。「money」は上限が可変的だけど「time」は24時間って決まっている。変わらない。

 

 

 

だからこそ、お金以上に時間に関しては管理能力を養っていかないとなあと思う。

 

 

 

その取り組みの一環としての、コンビニを辞めて塾講一本化。

 

 

 

 

「時間」と「余裕」をもって過ごしていこうと、大学入学前に抱いていたのを思い出した。

 

その気持ちをもう一度掘り起こさんとな。

 

 

 

 

書きたいことは別の話だったんだけど、筆が進んだのでまあよしとしよう。

 

 

 

まあコンビニ辞めることで朝の時間できるし、ブログ活も捗るでしょう(震え)。

 

 

 

 

 

ではではさいならっきょ〜

 

 

旅行を通して

こんにちは。

 

大学で属している研究室での二泊三日の福井旅行から帰還。

 

 

日本史学ということで、古文書館、◯◯城、◯◯遺跡など、歴史探訪の3日間だった。

 

 

2回生は旅行パンフレット作成&現地で発表という激アツイベントを任されていた。

 

僕も例外ではなく、自分が作成した論理ガバガバなパンフを、城の前で拡声器を用いて自信満々にしゃべり倒した。

 

 

 

研究室旅行の1日は長い。

 

 

夕食、二次会後も、部屋に戻ってから眠気が許す限り、同回で集まって修学旅行的雰囲気を楽しんだ。

 

 

2日目の夜は男女一同、1つの部屋に会して呑んだし、旅行前より確実に同回の親交は深まった。

 

 

いろいろ巡ったけど、それが1番の収穫だった。

 

 

 

 

、、しかし、これ以上に大きな収穫に気づいたのは、最終日の帰路を辿る電車内での友人との何気ない会話からだった。

 

 

 

 

最終日は基本フリーで、チェックアウト後に直帰する人もいれば、他のスポットを巡る人もいた。

 

 

好奇心が疲労と面倒さにどうしても勝らなかったので、僕は同じ気持ちの友人と2人で直帰コースを選んだ。

 

 

その友人と電車に乗って帰っている途中、こんな話になった

 

 

「旅行って、普段見られない、見にくい人の特徴や性格が観察できる機会だよね」

 

 

 

2泊3日の旅行を終えた直後だからこそ、出てきた考えだと思う。

 

 

例えば、起床という行為1つとっても、十人十色だ。

 

寝る前にアラームをかけて起きる人もいれば、初めから他人に起こしてもらうのを前提としている人もいた。

 

 

 

「ああ、こいつって、こういうところあるのか」って思う場面、いくつもあった。

 

 

 

 

じゃあ何で、旅行では日常では捉えにくい他人の「クセ」を観察しやすくなるのか。

 

 

 

「ONだけでなくOFFの時間も共有する」っていう点が、このことを考える上で重要なんじゃないかと、今パッと思いついた。

 

 

 

 

同じ専修で、いくら共に過ごす時間が長いとはいえ、1日24時間全てを共有することなんてそうそうない。

 

 

それに、会うのは大体キャンパス内で、つまりお互いの気持ちが「ON」の状態のときに交流している。

 

 

それだと、世間を多少なりとも意識している「ON」状態の側面ばかりを把握してしまう。

 

 

しかし、旅行では、ONに限らず、比較的リラックスした状態である時間も他人と共有する。

 

 

だからこそ、日頃見られない「OFF」状態の他人と接する機会が増える。

 

 

高校の部活で長期休暇中に合宿をしていたけど、今思うと合宿以降、チームの雰囲気は上向きになっていた。

 

 

それは厳しい練習を共に乗り越えたという達成感の共有もだろうし、そして寝食を共にすることで、互いのことをより知ることができたのも大きな要因だろう。

 

 

 

 

気の知れた友人と無性に旅行したくなった。

 

 

いくら普段仲良く接していても、お互いにまだまだ知らない部分はたくさんあるだろうし、その未知の領域を開拓していくことで、新たな関わり方が生まれてくるかもしれない。

 

 

 

それを踏まえると、どこに行くかだけでなく、誰と行くかもやはり旅行においては考慮すべきなんだろうな。

 

 

 

「旅の恥はかきすて」

 

 

 

 

旅行を通して、普段見せない、見せられない部分を互いに出して、認めて、もっと面白い関係を築いていく。

 

 

 

 

今度は研究室で会う友人とどんなやりとりをするのか楽しみにしつつ、それまでは旅行の余韻で我慢しておこう。

 

 

 

 

 

さいならっきょ

オレンジで伊豆

ちわー。

 

 

今日は、午後から大学内のリーグ戦。

 

 

試合開始予定である2時の時点で、8人しかいないという、相変わらずの集まりの悪さ(僕は55分に到着 汗)。

 

 

 

 

相手チームの様子見てみると、他チームの上手い選手何人かいたので、今日は厳しいかなーと思いながら試合に入った。

 

 

 

 

 

...単なる杞憂だったのか、結果は10−4でウチの大勝。

 

 

 

僕は、プレイングマネージャとかいう名ばかり管理職に就いている都合上、終盤から途中出場。

 

 

 

 

 

1打席回ってきて、ライトゴロで1打点つけた、、、(笑)。

 

 

 

打点つけたからプラマイ0だったけど、ライトゴロって、双方のチームの士気を微妙に上下させるよね。

 

 

まあ戦力として自分の役割果たせたということにしておこう。美化美化。

 

 

 

 

 

 

 

 

試合後は「ノック」という名のアフターを楽しんだ。

 

 

 

マネジャーそこそこおる野球サークルでこういうアフターしたら、やっぱり”ドン”引かれるのだろうか。

 

そこらへんは、マネジャーいないので机上の空論に留まってしまうのだが(号泣)。

 

 

 

 

こんだけまとまりないメンバーでも、「野球」っていう共通項の下ではこんなにまとまるんだなあと思いながら、背筋フル回転で外野ノック打ってた。

 

 

 

 

 

 

 

 

ノック後、チャリこいでそのまま帰宅コース。

 

 

 

途中、学部の友人2人と邂逅を果たした。

 

 

 

 

 

何でも卒論の中間発表会だったらしいが、彼らの研究室は「休日」についてもう少し考えを巡らせる必要があるのではないだろうか。

 

 

 

歩きながら話しているうちに、興に乗ってきたのでマックへ。

 

 

 

 

互いの近況報告をメインにあれこれ話したが、「学部」を越えた話題ってあまり出てこなかったなあと今振り返って思う。

 

 

 

 

自分のコミュニティの狭さを実感。

まあ何をもって「狭い」といえるのか、そうした基準を持っているわけではないけど、「狭い」という印象を抱いた。

 

 

 

 

小一時間話して、解散。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タイトルの「オレンジデイズ」通り、「THE 大学生」な1日を送った。

(誤変換が面白かったのでそのままにした)

 

 

 

 

 

単純に楽しかったんだけど、こうした日が「日常」ではないから楽しいんだよなあとふと思った。

 

 

 

非日常だからこそ味わえる充実感。

 

 

 

 

つまり何が言いたいかというと、自分は今後もこうした「日常」は送らないだろうなあということ。

 

 

漠然とした未来予想図。

 

 

 

 

だから厳密にいえば、今日みたいな日は自分にとって「オレンジデイ」であって、これが「オレンジデイズ」になることはないかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

量ばかり求めても、う◯ちみたいなことしか書けねえなと、袖を絞りに絞りつつも何とか書き終えた。

 

 

 

 

 

てか自分が持ち合わせているう◯ちな精神性を鑑みると、アカデミックなことよりむしろう◯ちなこと書いたほうがはかどりそうだし、何より「う◯ちなこと書けてる!」って自分が楽しめそうだ。

 

 

 

 

「はい、今何回う◯ちっていったでしょうかーwww」っていう内容や文体のほうが、僕の精神性にあってることは間違いない。

 

 

 

 

 

 

 

.....すみません(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

さいならっきょ。

 

 

 

 

 

 

 

 

三連休

こんちは。

 

 

三連休の初日目(ほぼ)終了。

 

 

 

<今日の流れ>

 

早朝バイトこなし、少しだらだらした後、大学行って塾の予習済ました。

 

最近塾講がマンネリ化してるなと思い、指導法など考えつつ英語の予習を進めた。

 

 

 

「文法説明→問題演習」と固定させるのではなく、文法内容をそれが扱われている問題ごとに分け、小出し小出しで説明していく、という大まかな指針を決めた。

 

 

 

「型」は大事なんだろうけど、今回は「型」自体に問題があると判断し、こうした方向転換に至った。

 

 

 

予習を済ませてから、まだ脳みそに余裕があったので、内田樹の本を1冊ざーっと読んだ。

 

 

大学入試でもちょくちょく著者として扱われる人なので前から内田氏の本は何冊か読んでいた。

 

 

大学入学後、しばらくの間遠ざかっていたが、友達の影響で読んだ「寝ながら学べる構造主義」が非常に面白くて、今再び読み返している。

 

 

 

 

 

 

今日読んだ本は「疲れすぎて眠れない夜に」。

 

 

 

1つテーマが大体2〜3ページ程度でまとめているので、タイトル通り、ちょっとした手持ち無沙汰な時間を潰すのには丁度良い構成となっている。

 

 

 

 

僕は疲れてなかったので一気に読んだけど(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

この本と出会ったきっかけは後期日程の大学入試。

 

 

小論の課題文として、この本の一部が引用されていた。

 

 

 

 

中身は「利己的」について書かれていた。

 

 

 

 

 

内容をすごく簡潔にまとめると、こうだ。

 

 

 

<真に「利己的」な人間は、内向き思考ではく、外に目を向けていく。>

 

 

内田氏はそのように述べていた。

 

 

彼によると、他人を顧みず、自分勝手に振る舞う人間は、自己が抱えるごく一部の感情に身を委ねているだけであるという点で、「利己的」とはほど遠い存在であるという。

 

 

 

 

例えば一瞬の苛立ちから殺人を犯す人は利己的ではなく、「むかつき」という自己の一部分に身を委ねている点で「利=むかつき的」なのだという。

 

 

 

 

 

それに対して、真に「利己的」である人間は、そうした自己の一部分に囚われず、どうしたら自分が幸福になれるか考えるのだという。

 

 

そして考えた末、自分が幸福であるためには、家族、友人もまた幸福でなければならないと気づく。

 

 

 

その結果、「利己的」な人間は、自分の周囲に対してどんどん目を向けるようになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

....中々耳が痛かった(笑)。

 

 

 

これを聞くと、自分が「利己的」だなんて、口が裂けても言えんなー。まあ身体を縦に引き裂かれたようなショックは受けたけど。

 

 

 

「自分と他人は異なるが、同等の存在だ」っていう、すごく基本的なことをもう一度考える必要があるなあとか思ったり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ほんで、一旦帰宅して教材置いた後、「UMEDA」へ。

 

 

 

 

休日の梅田は本当に「UMEDA」って感じだった。

 

 

 

 

服を買おうかなと、ヨドバシ5〜7階をウロウロ。

 

 

小一時間回った後、結局ユニクロH&Mに落ち着いた。もはやテンプレ。

 

 

 

 

服を買い満足感を抱えて帰宅し、現在。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

...今思い出したけど、メインは本屋だった(笑)。

 

 

 

 

 

...amazonでポチるか.......。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何か身につけるのに「質or量?」って議論よく聞くけど、とりあえずある程度量こなしてからじゃないと質はつかみきれないと個人的に思っている。

 

 

 

 

 

なので、今後もどんどん書いていく所存っす。

 

 

 

 

 

そのためには色んな方面にアンテナ張っておく必要があるし、そしたらいよいよ「利己的」な人間へと近づいていきそうだ。

 

 

 

 

 

てことで今日のところは「クライマックスシリーズ」にアンテナ向けるとするか....。

 

 

 

 

さいならっきょ。⚾️

 

 

 

 

 

「嫌なら見るな」を言うな

こんちはー。

 

大学の後期が始まってはや一週間。

 

各講義のガイダンスも終了し、もう完全にバカンスモードは消え失せた。

 

 

ちょっと多めに講義を取った気もするけど、面白い講義がいくつかあったし、今期もまあ何とかなるでしょ、っていうスタンス。

 

 

 

 

 

 

ここ一週間、「表現」について少し思うことがあった。

 

 

 

 

きっかけは、ネット上で見かけたとある絵。

 

 

 

その絵は、不敵な笑みを浮かべる「難民」の少女を描いていたんだけど、最初に見たときすごい嫌悪感に襲われた。

 

 

 

何より、絵と一緒に添えられていた言葉があまりにも酷かった。

 

 

 

偽装難民」に対するメッセージなんだろうけど、理解したところで、その絵に対する嫌気は全く消えなかった。

 

 

 

 

 

 

恐らく作者は「風刺画」としてそうした表現をとったのだろう。

 

 

 

 

 

 

しかし、そもそも「風刺」に全然なっていない。

 

 

 

 

 

 

「風刺」は、社会における権力者=「強者」に向けることによって、その役目を果たす。

 

 

その役目とはつまり、ある権力者がやっている横暴な振る舞い・態度を絵に映し出すことで、社会にそうした事実をアピールすると同時に「客観視」をその人に促すという役目だ。

 

 

 

 

 

それを踏まえると、今回の難民の絵は「風刺画」とは到底言い表せない。

 

 

 

 

 

弱者に対して向ける圧力は、単なる「イジメ」だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

そうしたことを考えているうちに、その絵を書いた人のFBでの発言を見つけた。

 

 

 

 

「芸術」だとか「表現の自由」だとか述べていた。

 

 

 

 

 

ある作品が「芸術」たりうるか、ということについては正直まだ考えが整理されていない。

 

 

 

 

しかし、「表現の自由」については、やや整理がついた。

 

 

 

 

 

まず結論として、「表現の自由」≠「何を書いてもよい」ということだ。

 

 

 

 

もしかしたらすごく基本的なことなのかもしれないが、僕自身、今まで文章を公の場に投稿する中で、足りていなかった点のように思われる。

 

 

 

 

このことを説明するのに、次の言葉を参考にしてみたい。

 

 

 

 

 

「嫌なら見るな」

 

 

 

 

 

これはつまり、自分が表現した内容に対して嫌悪感を示すくらいなら、最初から触れなければいい、という、表現者側の言い分である。

 

 

 

 

僕自身、最近までこうした考えは多少抱いていた。

 

 

 

 

見たい情報と見たくない情報を「棲み分ける」、それは受け手にとってリテラシーと関わる重要なスキルとさえ思っていた。

 

 

 

 

 

しかしこの考えは間違っていたと、今は言える。

 

 

 

 

 

こうした主張の前提に「表現の自由」に対しての歪んだ解釈があるのだと気づいたからだ。

 

 

 

 

 

 

 

「自由」とは「無制限」ではなく「制限」されている概念だ。

 

 

 

 

例えば、「道路」について考えてみる。

 

 

 

「田舎で自由に車乗り回したいなあ」

 

 

 

なんてことを思うときに、僕たちの頭に浮かぶ映像は何であろうか。

 

 

 

 

 

それは草木が生い茂った「あぜ道」ではなく、しっかりと舗装された「道路」ではないだろうか。

 

 

 

 

たとえ人口の少ない田舎に行っても、そこに車が走れる道路がなければどうしようもないだろう。

 

 

 

そのような状況は「自由」ではなく「不自由」でしかない。

 

 

 

 

「道路」という制限された範囲でのみ、僕たちは「自由に」ドライブを楽しむことができる。

 

 

 

 

何かを基準に範囲を規定されることによって「自由」は成立する。

 

 

 

 

 

 

 

 

これを踏まえると「表現の自由」=「何を言ってもよい」とはならないはずだ。

 

 

 

 

では表現を制限する基準は何だろうか。

 

 

 

 

ありきたりにも思えるが「倫理的」であること、これに尽きる、というのが現時点での僕の考えだ。

 

 

 

 

すごく抽象的だが、例えば「他者への配慮」がなされていることである。

 

 

 

 

今までネットに文章を投稿する際「他者への配慮」が僕には欠けていた。

 

 

 

それは「嫌なら見るな」という、「自由」をはき違えた主張に基づく。

 

 

 

これについては後悔と反省しかないなと思っている。

 

 

 

 

 

 

ツイッターに「ミュート機能」ってあるけど、どうなんだろうね、あの機能。

 

 

 

「嫌なら見るな」を認める側面もあるし、そうした主張を正当化させる側面もある気がする。使い方次第といえばそれまでなんだけど。

 

 

 

 

 

 

「嫌なら見るな」を言うな

 

 

 

 

 

今回考えたことが、今後の自分の行動にどう結びつくか、或は全く結びつかないか、しばらく様子みよう。

 

 

 

 

 

相変わらず稚拙な文章になったけど、とにかくどんどん書いていこうと思う。

 

 

 

 

 

さいならっきょー

 

 

 

 

最終日

休みが、おわった。

 

 

 

正確に言うと今日まで休みだからまだ終わっていないんだけど、もう気分的には休みなんて感覚じゃない。

 

 

 

今日は昼前に大学行って、友人と昼飯食べて、後期授業の教科書を買う。

 

 

 

教材なり、ノートなり、新学期に向けて新しいもの買いそろえると、意味のわからないやる気が多少わくのはなんでだろうか。授業が面白いかどうかなんて受けてみないと分からないのに。(まあ往々にしておもしろくないんだけど。)

 

 

 

小・中・高とそんな感じだったし、それは大学入ってからも変わらない。

 

 

 

そんなことを適当に友人と話してから大学を後にする。

 

 

 

 

帰路、ニトリに寄り、前から欲しかった座椅子を買い、家に着く。

 

 

座椅子を早速組み立てて座ってみる。期待通りのそこそこな使い心地に満足。

 

 

 

 

溜まってた洗濯物を洗濯機でガンガン洗う。

 

 

その間に、この夏期休暇について振り返ってみる。

 

 

 

 

 

....つもりだったけど急にどうでもよくなったから塾講の予習する。

 

 

取り組んでみたら意外とてまどい、2時間かけて終わらす。

 

 

時計を見ると5時。小腹がすいたので、パンを買いにスーパーへ。

 

 

 

ついでにアイスを買う。ついでのアイスを食べながら帰る。

 

 

 

 

 

 

休みが、おわった。

 

 

 

 

 

 

これほど休みが長いと、もはや大学での生活の方が非日常と化しているんじゃないかとさえ思う。

 

 

 

 

明日から大学。

別に大学行くのが嫌なわけじゃない。

 

 

 

 

ただ、「休みが、おわった」って感じてしまうことが何となく、嫌だ。

 

 

 

映画見終わった後の、たまに訪れる言い知れぬ「虚脱感」、それに似ているかも。

 

 

 

 

 

明日になれば、こうした気持ちも段々薄れていくだろう。

 

だから、「休みが、おわった」って感じたことを、ここに書き留めておく。

 

 

 

 

でも「大学が、はじまった」って感じるんだろうか。

 

 

 

 

 

 

さいなっらっきょ

 

「二項対立」で留まるナカレ

こんにちはー。

 

 

 

「オモローな記事」書くと前回予告しました!

 

 

しかし、今回もまあまあ「ガチ」な内容となる感じです!!

 

なので、冒頭部分だけでもテンションあげていこうということで、!←多用しています!!!!

 

 

 

 

!!!!!

 

 

 

 

 

はい、というわけで(笑)今回もまた、ややマジメ~な感じのこと書いていこうと思います。

 

 

 

 

前回、「日本人」という言葉に対するとらえ方を拡張すべきだ、と述べました。

 

 

それを考える中で、思うことがありました。

 

 

 

 

それは「二項対立の危うさ」と「知識のリンク」です。

 

 

 

 

 

前回に引き続き、「安保法案(「戦争法案」ではありません)」に関連付けて述べていこうと思います。

 

 

 

 

まず、「二項対立の危うさ」について。

 

僕がこれほどまで「戦争法案」という表現を避けている理由の説明から始めようかと思います。

 

 

 

 

今回強行採決された「安保法案」。それを反対する人々が口々に発していた「戦争反対!」。

 

 

 

言葉尻を捉えすぎている印象はぬぐえませんが、この主張を聞くと、どうしても「戦争賛成か反対か」という、いわゆる「二項対立」で今回の法案を捉える人々がでてしまうのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

まず言いたいのは、別に賛成派は戦争に賛成であるわけではないということです。当然すぎますが、ここを勘違いしている人が多いように思われます。

 

 

 

だって、誰も戦争なんてしたくないじゃないですか。戦争で利益を得るのはごく一部の国、言ってしまえば戦争を常にリードする超先進国だけです。(例えば、日本の「お友達」とか。)

 

 

 

 

つまり、この法案は「戦争”抑止”法案」だということです。「集団的自衛権」を行使し、国際的連携を強めることで、中国などの脅威を牽制して日本が戦うリスクを軽減するための法案なのです。

 

 

 

 

 

 

 

「二項対立」って学校の国語の授業で習った方、多いんじゃないでしょうか。

 

 

 

この枠組みって、結構便利ですよね。「白と黒」「男性と女性」というように、物事を大きく2つに区別することで、より考えを整理できるのが特徴だと思います。

 

 

 

しかし、これは、分かりやすいが故に、浅い議論に収まってしまうリスクも抱えた概念です。

 

 

 

だって、現実で起きている物事は、必ずしもこのように明確に区別がつくわけではないからです。要するに「グレーゾン」が存在するのです。

 

 

 

 

 

確かに、物事を2つに分類して、状況を整理するのは大切です。

 

 

 

しかし、二項対立を整えたので満足するのではなく、その二項を比較検討するという取り組みがさらに重要だと思います。

 

そうすることで、二項対立の中に隠れていた新たな論点を導きだすことができるのです。

 

 

 

 

今回のケースでいうならば、「賛成派vs反対派」という二項対立レベルではなく、それぞれの主張を踏まえて、さらに深い議論を展開していくのが重要だということです。

 

 

 

 

 

 

僕なりに導きだした論点は、「集団的自衛権行使の”具体的ケース”」です。

 

 

ひとまず集団的自衛権の”基準”については政府が設けています。「後方支援」です。どのような形で支援するのかについても、ある程度述べています。

 

 

しかし、その「後方支援」が一体どのようなケースで行使されるのかという、現場に即した見解を、政府は未だ示しきれていないように思われるのです。

 

 

 

 

なぜ反対派が終始「戦争反対」を唱えているのか考えた結果、政府が集団的自衛権を行使する”ケース”を明言していないからではないかと考えました。

 

 

 

そして賛成派も、集団的自衛権の重要性については述べていますが、それがどのような場合に行使されるかはイマイチ捉えきれていない印象を受けました。

 

 

 

 

 

集団的自衛権」が実際の現場でどのように行使されるのかという具体的事例を安倍政権はまだ挙げていません。

 

 

 

このことがマスコミに「説明責任が果たせてない」といわれる大きな所以でしょう。

 

 

 

なので、強行採決に踏み切った今、次に取り組むべき議論はこの「集団的自衛権行使の”具体的ケース”」だと思います。

 

 

 

 

さすがにこれについて未だに議論が進んでいないなんてことはないでしょうが、それならそれで、ある程度議論がまとまった段階で、国民に事例をどんどん伝えていくべきだと思います。

 

 

 

この「説明責任」を政府が果たせば、それは「賛成VS反対」でガチガチに固まっている状況を打破する一助となりえるはずです。

 

 

 

 

 

 

 

二項対立を比較検討して、さらに高次な議論を展開する。これはヘーゲルの唱えた「弁証法」そのものですが、今回の安保法案の議論を捉える過程で、ようやくこの考えの重要性について、自分の中に落とし込めたような気がします。

 

 

 

 

長くなったので、「知識のリンク」については次回述べたいと思いますー。

 

 

 

 

次回は、最後にまあまあオモローなこと書こうと企んでおりますので、よろしゅうです!!!

 

 

 

 

 

さいならっきょ。